東京都港区愛宕一丁目にある小高い愛宕山の上に愛宕神社(あたごじんじゃ)神社があります。
(愛宕神社は各地にありますが、本山は、京都市右京区嵯峨愛宕町1にあります。)
慶長8年(1603)徳川家康が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として建立したものです。
愛宕山の海抜は26mで、歩いてもすぐに登れますが、それでも23区内では随一の高さです。
明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導いたことでも有名です。
目次
1 大鳥居
愛宕山の西にある都道301号側に入口があります。
2 正面の男坂
大鳥居を潜ったら正面に山頂まで続く階段があります。
この男坂は通称「出世の階段」とも呼ばれ、曲垣平九郎(まがきへいくろう)の逸話があります。
愛宕神社正面の石段「男坂」(となりの緩やかな石段は「女坂」)は別名「出世の石段」と呼ばれ、その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の一人曲垣平九郎(まがき へいくろう)の故事にちなみます。
時は寛永十一年。
三代将軍徳川家光公が芝増上寺ご参詣の帰り道 神社に咲き誇る源平の梅の馥郁たる香りに誘われて山頂を見上げて「誰が騎馬にてあの梅を取って参れ」と命ぜられました。
しかし目前には急勾配な石段があり、歩いて登り降りするにも一苦労。
馬での上下など、とてもとても・・・と家臣たちは皆一様に下を向くばかり。
誰一人名乗りでる者はおりません。家光公のご機嫌損なわれそうなその時!一人の武士が愛馬の手綱をとり果敢にも石段を上り始めました。
「あの者は誰じゃ?」と近習の臣に家光公からお尋ねがあっても誰も答える者はおりません。
その内に平九郎は無事に山の上にたどり着き愛宕様に「国家安泰」「武運長久」を祈り、梅の枝を手折って降りてきました。
早速家光公にその梅を献上すると「そちの名は?」「四国丸亀藩の家、臣 曲垣平九郎にございます。」「この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれ。日本一の馬術の名人である。」と褒め讃えられました。
一夜にして平九郎の名は全国にとどろき出世をした故事にちなみ「出世の石段」と呼ばれるようになり、現代においても多くの皆様にご信仰をいただいております。
この急坂を馬で登ったとはとても信じられません、
3 女坂
男坂の右手にあります。
愛宕山を斜めに上るため、緩やかな坂になります。
4 愛宕山
愛宕山は洪積層の丘陵地で、標高は26メートルである。頂上に愛宕神社がまつられ、江戸時代から信仰と見晴らしの名所としてにぎわった所である。
愛宕神社の祭神は火の神(火産霊命 ほむすびのみこと)が中心で、江戸時代には幕府の保護もあり、多くの人々から火伏せの神として信仰されてきた。
今日のように周囲に高層ビルが立つまでは、山頂からの眺望がすばらしく、東京湾や房総半島までも望むことができた。
また、愛宕山には、男坂・女坂・新坂などの坂道があり、男坂は神社正面の86段の急勾配の石段で、寛永年間(1624-1644)に曲垣平九郎(まがきへいくろう)がこの石段を馬で上下したと伝えられる。
昭和50年12月(平成25年11月建替) 東京都港区教育委員会
5 一の鳥居
男坂を登りきるとあります。
6 愛宕神社
入口の朱塗りの門です。
7 江戸城無血開城会談の地
写真用のパネルだけが唯一、西郷隆盛と勝海舟の会談の歴史事実を語っています。
新政府軍による3月15日の江戸城総攻撃を間近に控えたある日、交渉に当たっていた幕府側の勝海舟と、新政府軍側の西郷隆盛は、ともにこの愛宕山に登り、ここから江戸の街を眺め会談しました。
かつての愛宕山の頂上からは、江戸の街から江戸湾まで一望できました。
この江戸を、戦火で包むことは避けようということで戦争が回避されました。
8 神社御由緒
当社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されました。幕府の崇敬篤くご社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝受を得ておりました。また徳川家康公のご持仏「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も特別に祀られております。(非公開)
江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に焼失しましたが現存のご社殿は昭和33年再建されました。寛永十一年三代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(八十六段)を駆け上り、お社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ、「出世の石段」の名も全国に広まりました。万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でもありました。(ご社殿内に額縁寄贈)
海抜二十六メートルは都内随一の高さを誇り、桜と見晴らしの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿を残しています。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導きました。鉄道唱歌にもその名が残り春は桜、夏の蝉しぐれ、秋の紅葉、そして冬景色と四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山として大変貴重な存在となっております。
ほおづき市・羽子板市は浅草の市の先駆け、発祥の地として江戸時代の書「東都歳時記」にもその賑わいは記され、現在は六月の千日詣り、羽子板絵馬にてその名残りをとどめています。
9 頂上の池
山の頂上には池。
10 将軍梅
曲垣平九郎(まがきへいくろう)が、手折り、将軍・徳川家光に献上した梅と呼ばれています。
11 三角点
愛宕神社の境内には、三角測量を行う時に地表に埋定された基準点である三角点があります。
12 NHK放送博物館
1925年7月、この21区内で一番高い山である愛宕山でラジオの本放送が始まりました。
現在では、放送博物館として無料で一般公開されています。