東京 千駄ヶ谷の駅構内に王将のオブジェがあります。
これは、ここから歩いてすぐのところに将棋会館があるからです。
このオブジェはもともとオリンピックで改装する前の駅ホームにあった物とのことです。
この駒の裏面に書かれた、「千駄ヶ谷駅の由来」の文章は以前ホームにあった時の写真から写しました。
その昔この付近の谷あいから「千駄の稲」が収穫されたところから太田道灌が千駄ヶ谷と名づけたと言われています。
千駄ヶ谷駅は明治三十七年八月に開業し当時の乗降客は一日二五〇人ほどでした。
「駄」とは馬1頭に負わせる荷物の量を「1駄」とした単位で、「千駄」は「馬千頭分を超えるくらいにたくさん」という意味です。
さて、駅からてくてくと東京体育館の横を歩いて南方面に進むと2つ目の信号の所に鳩森神社が見えます。
左折し、鳩森神社の境内に添った道を進み、最初に現れた右側へ行く道に進み神社の裏手に回ると将棋会館の看板が見えます。
駅からは7分ほどです。
住所:東京都渋谷区千駄ケ谷2丁目39−9
2階の将棋道場と書かれた部屋では、小学校高学年位の子供達が将棋を指していました。
奨励会には、小学生将棋名人戦や中学生将棋王将戦などで優勝した経験をもつような、全国各地の天才将棋少年たちが集まって来ますが、最終的にプロになれるのはその中で半年に二人。
そして満26歳の誕生日を含む三段リーグ終了までにプロにならなければ退会を余儀なくされ、ただの26歳になってしまうという厳しい世界なのです。
そんな厳しい世界のことは下記の本を読んで知りました。
高校生棋士の成長を描いたヒット漫画作品「三月のライオン」の主人公・桐山零が玄関でお出迎えしてくれます。
さて戻って鳩森八幡宮を探索してみます。
境内には将棋堂があります。
堂の中には、王将の大駒が奉納されていました。
将棋堂由来記
昭和61年1月、社団法人日本将棋連盟(当時の会長大山康晴15世名人)より、山形県の駒師香月師の制作による、高さ1メートル20センチの欅製の大駒が奉納された。
この縁により、同年11月将棋の技術向上を目指す人々の守護神とし、更に将棋界の繁栄を
願って、日本将棋連盟と神社が協力し、この大駒を納める六角の御堂を建立した。
御堂の六角は天地四方を表わし、屋根の上の飾り金物は将棋盤の足の形、つまりくちなし(梔子)の実の形をしている。
くちなしは口無しに通じ、助言無用の戒めからきていると古くから言い伝えられている。
室内に安置された大駒は、御影石の将棋盤の上に立ち、その奥に氏神の八幡神が祀られている。
毎年年頭に、この御堂の前で祈願祭が行われる。
将棋上達を祈願する人は、いつでもその夢を絵馬札に托して奉納することができる。
参拝者は棋力向上の願いが叶えられ、よろず勝運に恵まれると言われている。
平成6年12月吉日
鳩森八幡神社
社団法人日本将棋連盟
ところで、この将棋会館の建物は老朽化のため2024年には、千駄ヶ谷センタービルに移転します。
場所は 〒151-0051 東京都渋谷区千駄ケ谷1丁目18−5
で、千駄ヶ谷駅からさらに近く徒歩2分の距離のところにあります。
下の写真の道を進んで突き当りが「千駄ヶ谷」の駅になります。
下の写真のパーキングの処に新しいビルが建ちます。
新しい将棋会館、今から楽しみです。
将棋の原型は、印度で生まれたチャトランガというゲームこれが西に伝わってチェスとなり、中国では象棋(シャンチイ)、韓国では将棋(チャンギ)、将棋の直系のルーツであるタイではマーク・ルックとなったと言われています。
しかし、いずれにも共通するのは取った駒の再利用が不可な事。
これができる将棋はゲームを複雑にしています。
手筋の組み合わせが膨大なため、コンピュータが人に追いつくのに一番時間がかかったゲームです。
これは室町時代に、応仁の乱という大戦で焼け野原となった京に住む公家達が戦争ゲームにしたくない、穢れた死者を出したくないという意志が生み出したゲームとのことです。
平和を愛する日本人が作り出したゲームと思うと、また将棋愛が目覚めますね。