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お城の祭典「お城EXPO」2021 横浜で開催

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日本最大級のお城のイベント「お城EXPO」も2021-12で第6回目を迎えました。

現地に行かなくても、日本各地からやって来た地域振興団体によって各地のお城が紹介され、お城好きにはたまらない祭典です。

当日イベントに参加したお城をここで一挙公開します。

目次

1        国宝五城~松江城・姫路城・彦根城・犬山城・松本城~

2        二本松城(福島県)

室町時代初期の1341年、室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山氏の居地を二本松と称し、自らも二本松と名乗った。

1586年に伊達政宗に攻められ、二本松城は落城。二本松氏は滅亡しました。

その後、城主はいろいろと変わりますが、寛永20年(1643年)丹羽長秀の孫・光重が10万700石で入城し、明治維新まで丹羽家の居城でした。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際し二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦ったため、城の建物の多くが焼失しました。

明治5年(1872年)、廃城令によって残る建物も全て破却されました。

3        茨城古河城

室町時代には、第5代鎌倉公方の古河公方・足利成氏が鎌倉を追われ古川を本拠とし、以後、戦国時代の関東における堀越公方・関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏とならぶ中心勢力の一つとなりました。

江戸時代には、多くの譜代大名が入れ替わりで城主を務め、近代城郭として整備されました。明治時代初期の廃城令により廃城となり、明治末に開始された渡良瀬川の改修工事により、残された城跡も大半が消滅しました。

 

4        八王子の滝山三城

滝山三城は、八王子市北部加住地域にある「滝山城」「高月城」「根小屋城」の三つの戦国時代の山城跡を総称したものです。

 

4.1         滝山城

1521年(永正18年・大永元年)山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重、定久が築城。

北条氏康が河越の夜戦(河越城の戦い)で扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を武蔵から排除すると、大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘婿に迎え、事実上、大石氏は北条氏の軍門に下りました。

1558年(永禄元年)頃、北条氏照は城の大改修を実施しました。

複雑な地形を巧みに生かし、屈指の堅城と呼ばれています。

4.2         高月城

滝山城に移る前の大石氏の居城と言われています。

多摩川と秋川の合流点近くの自然の要害を生かした丘に築城されていました。

4.3         根小屋城

城主は不明です。

断崖の上に築城されていました。

5        横浜の中世城郭 小机城

小机城は、現在の神奈川県横浜市港北区小机町にあった城です。

永享の乱(1438年 – 1439年)の頃に関東管領上杉氏によって築城されたといわれています。

山内上杉家の家宰(かさい:主家に代わって家政を取りしきる職責)であった長尾景信死後に、子の長尾景春が家宰職を相続できなかったことに端を発し、主家に対する反乱を起こしました。

このとき景春の味方をした豊嶋氏が小机城に立てこもり、敵方の太田道灌により落城しました。

その後、この地域が後北条氏の勢力下に入ると北条氏綱の手により修復されます。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際には、無傷のまま開城しました。

令和3年の年末には横浜市の教育委員会によって跡地の発掘調査が行われています。

 

6        鎌倉殿の13人(鎌倉市)

グッズの販売をしていました。

 

7        後北条家の系図

こちらは大河の「鎌倉殿の13人」の北条家とは違う、後北条家の系図です。

本城は言わずと知れた小田原城です。

8        三浦一族のお城

三浦為通は前九年の役で武功を挙げ、源頼義から相模国三浦の領地を与えられました。

その後、後三年の役、保元の乱や平治の乱を経て勢力を拡大しています。

そして治承4年(1180)源頼朝が打倒平家の兵を挙げると、頼朝と共に戦い鎌倉幕府の設立に尽力しました。

その功により、幕府の中で重用され、更に勢力を拡大してゆきます。

しかし、執権北条と戦うことになった宝治合戦(1247)で滅びます。

三浦一族の城として紹介されていたのは衣笠城、三崎城、怒田城、浦賀城です。

9        石垣山城(小田原市)

豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原征伐の際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に約80日間の突貫工事で築城しました。

建設中は小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側にまるで一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たしたといわれています。

現在は石垣山一夜城歴史公園として整備されています。

10     上田城(長野県)

上田城は天正11年(1583)、真田昌幸によって築かれた平城で、上田盆地のほぼ中央に位置しています。

堀と土塁に囲まれ、虎口(出入口)に石垣を使った簡素な城ですが、第一次、第二次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、天下にその名を轟かせました。

11     諏訪原城(静岡県島田市)

天正元年(1573)武田勝頼は遠江(とおとうみ)侵略の拠点とするために、家臣の馬場美濃守信春に銘じて牧之原台地に城を築きました。

城内に諏訪大明神を祀ったことから、諏訪原城の名が付いたと言われています。

諏訪原城は、駿河から遠江に入る要衝(ようしょう)の地にあり、高天神城(静岡県掛川市)攻略のための陣城(じんしろ)として、攻略後は兵站基地(へいたんきち)としての役割を担いました。

天正3年(1575)、徳川家康によって攻め落とされたのち、牧野城と改名され、今川氏真や松平家忠らが城番になりました。

天正9年(1581)に、高天神城が落城し、その翌年、武田氏が滅亡すると、この城の必要性は無くなりました。

その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと言われています。

 

12     愛知のお城

12.1      勝幡城

城の跡形が無いのが残念ですが、織田信長が生まれた城と言われています。

12.2      犬山城

国宝五城の一つです。

平成16年まで犬山成瀬家が個人で所有していました。

現在は財団法人犬山城白帝文庫の法人所有となりました。

 

12.3      岡崎城

岡崎城は、言わずと知れた徳川家康の本城でした。

戦国時代から幕末まで徳川とその譜代の居城として改修を重ねた結果、年代ごとにさまざまな石垣を観察することができます。

金沢城は「石垣の博物館」と呼ばれますが、岡崎城も負けず劣らず楽しめそうです。

来年(2023)の大河「どうする家康」で露出が多くなると嬉しいですね。

13     齋藤道三公・織田信長公所縁の山城・岐阜城

岐阜城(稲葉山城)は鎌倉時代以来の歴史持つ山城です。

本格的な城郭整備は、戦国時代、斎藤道三の時期と考えられます。

永禄10年(1567)、織田信長は稲葉山場を占領し、斎藤龍興を追放して本拠地を小牧山から移します。

信長はもともとの地名「井口」を「岐阜」と改め、「天下布武」を唱えて統一の戦いを進めました。

14     R4全国山城サミット開催地 岐阜県恵那市

14.1      金山城(岐阜県)

 

14.2      苗木城(岐阜県)

14.3      岩村城(岐阜県)

 

15     三重のお城

15.1      蒲生氏郷が築いた「松坂城」

天正12年(1584)、豊臣秀吉により伊勢湾に面した松ヶ島城に封ぜられた蒲生氏郷は3kmほど南にある独立丘陵に目を付け、松坂城を築城、天正16年(1588)に入府しました。

入府後間もない天正18年(1590)、氏郷が小田原合戦の功により、42万石の太守として会津に移封されたため、翌年、服部一忠が3万5千石を領して松坂城主となっています。

後に一忠は秀次事件に連座し自害して果てました。

その後、吉田重勝が城主となりましたが、元和5年(1619)紀州徳川家の祖、徳川頼宜の領地となりました。

以降、松坂には紀州藩松坂上代が置かれました。

正保元年(1644)に天守が大風のために倒壊、残る建物も米蔵を除いて明治14年(1881)には取り壊されました。

 

15.2      津城跡

津城は、当初織田信長の弟・織田信包(おだ のぶかね)が、伊勢上野城主であったとき、安濃津(あのうつ、現在の三重県津市)の地に元亀2年(1571)から安濃津城として築城を開始し、天正8年(1580)に、五層の天守を建てて完成しました。

その後、信包は秀吉により近江国に転封させられ、代わって文禄4年(1595)に富田氏父子が入場し、のちに富田信高が城主になりました。

富田氏は秀吉に仕えていましたが、関ケ原の戦いの前に徳川方へ就いたため、津城は毛利秀元を総大将とする約3万人の西軍勢に攻められ落ちました。

関ケ原で東軍が勝利すると、富田信高が再び城主に返り咲きましたが、慶長13年(1608)に、家康の命で藤堂高虎に代わりました。

現在の津城は、織田信包が築城した城郭を高虎が慶長16年(1611)に大改修したもので、明治維新後、建物はすべて取り壊され、城郭も外堀のすべてと内堀の大半が埋め立てられ、本丸と西の丸の石垣と郭が残り、内堀は北と西に当時の半分ほどの幅に狭められて残っています。

黒漆塗唐冠形兜(くろうるしぬりとうかんなりかぶと)です。

藤堂高虎が豊臣秀吉から拝領した兜。

兜体と平ら小札(こざね 小さな短冊状の板)を紐で通した(おどした)兜はいずれも錆(さび)下地黒塗りで、兜体の頂上部に木製錆下地黒塗りの巾子(こじ)を装着します。

巾子(こじ)突き出ている部分で、着脱可能とのことでした。

 

15.3      伊勢亀山城

天正18年(1590)岡本良勝が亀山古城の東に築城したのが現在の亀山城です。

実際には、戦国期の亀山城が近世亀山城の下層から確認されており、中世末期の城郭を母体として築かれたと考えられます。

江戸時代初期の亀山城は、上洛する将軍などの休泊所として本丸御殿が使用されており、寛永11年の将軍宣下にかかる徳川家光の上洛の前年には大々的な整備が行われています。

寛永13年 本多俊次が城主となると亀山城の大改修に着手し、その形状が明治時代まで存続しました。

明治6年(1873)のいわゆる廃城令によって、城内のほとんどの建造物などは取り壊され、現在は多門櫓と石垣、土居掘の一部が残されています。

15.4      鳥羽城

文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の家臣であった九鬼嘉隆が築城しました。

九鬼氏はお家騒動で国替えとなり、寛永10(1633)に譜代の内藤忠重が城主となりますが、その後、内藤氏が江戸の殺傷事件で領地没収になると、幕府直轄地を経て土井→松平→板倉→戸田と城主の交代が相次ぎます。

享保10年(1725)稲垣氏の入封により、ようやく安定し幕末まで続きます。

明治2年(1869)版籍奉還により、城地は官有地となり、明治4年(1871)には天守をはじめ城郭の建物、城門、櫓等の建物は取り壊されました。

 

16     一乗谷城(福井県) 日本のポンペイ!

越前朝倉氏の居城です。

応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花しました。

しかしながら、織田信長に攻められ、灰燼に帰しました。

一乗谷朝倉氏遺跡資料館は一乗谷朝倉氏遺跡博物館(仮称)として2022年10月リニューアルの予定です。

17     丸岡城 北陸唯一の現存天守(福井県)

柴田勝家の甥「柴田勝豊」が1576年「まるこの岡」と呼ばれていた現在の丸岡城の場所に築城しました。

レンタサイクルで観光することができます。

https://www.city.fukui-sakai.lg.jp/shisho-maruoka/kanko-bunka/kanko/documents/cachari.pdf

 

18     歴食JAPAN

昔の食事を再現しています。

現代と比較すると質素な食事ですね。

 

羽のついたウズラがとてもエグイ。

 

19     関ケ原町

19.1      関ケ原古戦場

武将ごとに、関ケ原を散策するためのガイド本をいただきました。

各武将に関連する場所を含めて散策コースが設定されています。

かなり貴重なガイドマップです。

19.2      松尾山城

松尾山城は、関ケ原の合戦で寝返った小早川秀秋が陣取った城として有名です。

もともとこの城への入城を石田三成から託されていたのは大垣城主の伊藤盛正ですが、合戦の前日に小早川秀秋に追い出されます。

寝返る前提で、この山に陣取ったものと思われます。

関ケ原合戦の屏風です。

関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵のもののレプリカです。

20     滋賀県・近江の城

20.1      佐和山城

慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃し、落城させました。

石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城しました。

井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに彦根城を築城したため廃城となりました。

 

21     大和三城(郡山城・宇陀松山城・高取城)

天正8年(1580)8月、天下統一を目前にした織田信長は、大和国(奈良県)の城は郡山城のみとし、他はことごとく破壊するように命じます。

後に「大和一国一城令」と呼ばれる法令です。

この命により、中小規模の豪族が群雄割拠し、それぞれの支配領域ごとに城が築かれていた時代は過去のものとなり、「城」が守備し、支配する範囲は大和一国単位まで拡大しました。

しかし、大和全体の抑えとしては、郡山城はやや北に寄りすぎており、大和盆地の南半や、その南に広がる吉野方面まで睥睨(へいげい)するには限界がありました。

この欠点を補うため、大和南部の軍事的拠点として高取城が置かれ、東方面の抑えの要として宇陀松山城が置かれました。(配布資料から)

 

 

22     筒井城

興福寺官符衆徒(かんぷしゅと:寺中の兵力の中心)の筒井順慶の居城でしたが、「大和一国一城令」によって郡山城に移動したためこの地は急速に衰えました。

 

23     岸和田城

延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)の湊川の戦いで楠木正成の部下として活躍した岸和田治氏という武将がおり、おそらくその一族によって1400年までに岸和田が開拓されたと見られます。

24     岡山県のお城

24.1      岡山城 令和の大改修令和4年11月OPEN

戦国時代に、備前東部から興って、美作、備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われました。

 

24.2      津山城(岡山県)

1603年(慶長8年)森忠政が18万6千石で入封し津山藩が立藩。

同年、現在見られる津山城の築城に着手した。

1616年(元和2年)13年の歳月をかけ完成。

1874年 - 1875年(明治7年 - 明治8年)天守・櫓などの建物がことごとく破却されました。

24.3      備中高松城

秀吉の水攻めで有名な高松城です。

水攻めを考えたのは黒田官兵衛です。

もともと堤が無くても水が溜まりやすい地形であったということです。

25     世界文化遺産・国宝姫路城

姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力です。

戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張されました。

池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めました。

 

26     福山城

関ヶ原の戦い以降、後に福山藩となる備後国は安芸国と共に福島正則によって領有(49万8千石)されていました。

しかし、正則は広島城無断修築の咎で元和5年(1619年)に改易となり、領地は分割され、安芸および備後北部・西部は浅野長晟(42万石)に与えられ、備後南部には徳川家康の従兄弟で大坂の陣では後藤基次を破るなど卓越した戦歴を持つ水野勝成が、大和国郡山藩(6万石)から4万石の加増を受けて10万石で入封することになりました。

水野勝成は入封と同時に福山城と城下町の建設に着手し、福山城は4年近い歳月を費やし元和8年(1622年)に完成しました。

  

 

27     長宗我部の浦戸城(高知県)

戦国時代に長宗我部元親が居城とし、山内一豊も高知城に移るまで居城としました。

 

28     肥前名護屋城跡・陣跡(佐賀県文化課)

豊臣秀吉が始めた文禄・慶長の役の時の出兵基地となりました。

 

29     勝連城/沖縄県うるま市

勝連城は、14世紀始め頃に英祖王統の第二代国王・大成の五男、勝連按司によって築城され、阿麻和利に到るまで十代の城主により統治されたと考えられています。

初期は軍事的な目的で築城されましたが、時代を経るに従って、祭祀的な要素が強くなりました。

30     世界遺産「座喜味城跡」(沖縄県読谷村)

座喜味城は、戦乱の世だった「三山時代」(1322年頃から1429年まで。沖縄本島を統一する勢力が存在せず拮抗し互いに相争っていた)に活躍し、琉球王国統一後の国の安定に尽力した名将護佐丸(ごさまる)によって築かれた城です。

終戦末期の1944年8月、日本軍が飛行場の防護のため、座喜味城一の郭に高射砲陣地を構築しました。

その年の10月、米軍の猛攻撃を受け壊滅的な打撃を受けました。

沖縄返還を機に城壁の調査と再建が行われ、通信基地の退役軍人も驚嘆するほどの美しいグスクとしてよみがえりました。

 

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