「どうする家康」浜松大河ドラマ館は浜松城公園に隣接した場所にあります。
そんな訳で、ドラマ館の前で写真をとると、背後に浜松城が写ります。
もともとこの場所は元城小学校が建っていましたが、2017年3月閉校となり、その跡地を利用しているということでした。
ドラマに登場する浜松城を再現しています。
ドラマでは、このはねあげ門から信玄を追って出撃して行きました。
浜松城の最前線
出丸はね上げ門
浜松城のふもとに建つ「どうする家康 浜松 大河ドラマ館」。
家康在城時代の浜松城に紛れ込んだかのようなドラマ館”を目指し、撮影で実際に使用された「浜松城・出丸」セットの一部を移築しました。
当時の浜松城は、堀や土塁で囲まれた実践向きの城郭を築いたと言われています。
ドラマでも、丸太を組み合わせた「はね上げ門」が登場。
門をくぐったその先に見えるは、浜松城の本丸・詰の丸です。
浜松城の最前線
出丸見張り小屋
「出丸」とは、 「本丸」 「二の丸」 など本城敷地内にある曲輪と違い、外側へ飛び出た場所につくられた曲輪のことです。
外に作って見晴らしを確保し、敵勢の動きをいち早く察知する。
必要とあらば真っ先に打って出て迎撃する。
いわば城の“最前線基地" (有名な 「真田丸」も大坂城に作られた出丸です)。
当時の出丸はこのような小屋があり、腹ごしらえや仮眠を取りつつ、
武田・今川など敵の動きに日夜目を光らせていたに違いありません。
史実でも、 浜松城の南側に出丸があったとされ、現在の中央図書
館辺りに 「浜松城出丸跡」の石碑が立ちます。 この出丸は 「鳥居曲輪」とも称され、側近・鳥居元忠が守備していました。
出丸跡近くから、 浜松城天守閣を見晴らしよく一望できます。
浜松にゆかりの深い登場人物。
女城主・井伊直虎によって育てられた井伊直虎は浜松出身です。
田鶴は、鵜殿長照(うどの ながてる)の妹で瀬名の幼少からの友人ですが、ドラマでは今川家臣の夫・飯尾連龍が徳川に内通しているのを見て、今川に密告したため夫は殺されてしまいます。
夫亡きあとは城主として引間城(のちの浜松城)を守りましたが家康と対峙して馬上で撃たれ戦死しています。
田鶴の鎧です。
いわずとしれた武田信玄。阿部寛の迫力が凄い。
山県昌景は、武田軍最強の部隊を率いていました。
ドラマでは、三方ヶ原の合戦の前哨戦で偵察隊の本夛忠勝と戦っていますが、その強さを忠勝役の山田裕貴が語っていました。
本多忠真は松平家に仕え続けた本多家の武将で、 忠勝の叔父です。
忠勝の父・忠高が合戦で亡くなると親代わりとして甥の忠勝に武芸を徹底的にたたき込み、最強武士に育てました。
昼間から徳利片手に酒を飲み、酔っ払っていましたが、三方ヶ原の戦いで討死します。
夏目広次は徳川の譜代家臣です。
あまり目立たず、 家康から名前をなかなか覚えてもらえません。
ドラマでは回顧録として、
6歳の家康が今川に人質として送られる際に、三河田原城主・戸田康光に誘拐され織田に送られますが、そのときに警護に当たっていたのが広次でした。
当時は名前が「吉信」で、このことに恥じて、「広次」に改名しています。
また、三河一向一揆の際は一向宗側につきますが、 終結後、家康に許され帰参しました。
ドラマの三方ヶ原の戦いでは浜松城の留守居でしたが、味方が敗色濃厚なのを知って家康の救援に向かい、隠れている家康を見つけ、その金陀美具足を代わりに身にまとい身代わりとなって討死します。
この回では、最高の見せ場となりました。
元康から、家康への改名する場面で使われた小道具。
信玄が差し出した茶器の盆と栗の包み 同等品
山寺での交渉の席に姿を現さない武田信玄。
怒った家康が庭に出ていると、巨躯の僧がふらりと現れ、茶を差し出す。
無邪気に応じる家康だが、徐々にその男が信玄らしいと分かり、存在感に呑まれていく。
信玄は「駿河から我らが、遠江からそなたが、切り取り次第」 と提案、瀬名への土産に栗まで手渡す。家康はうなずくのがやっとだった。
第11回 「信玄との密約」
家康と瀬名の衣装です。
「信玄の衣装は、体を大きく見せるために厚手で着るとかなり重い。」と、TVのインタビューで阿部寛が言ってました。
今川領を示した地図
以上で、大河ドラマ館は終わりですが同じ日に浜松城も見学にいっています。
三方ヶ原の合戦寺の浜松城(引間城)はこちら
「どうする家康」の大河ドラマ館は静岡、岡崎にもあります。