史跡

春には桜の名所で有名な高遠城址公園

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高遠城は、長野県伊那市に位置する歴史的な城で、戦国時代には武田信玄の支配下にありました。

築城時期は不明ですが、14世紀頃に諏訪氏から分かれた高遠氏が治めていたとされています。

 

戦国時代の重要拠点

高遠城は、天文16年(1547年)に武田信玄が改修し、以後、信玄の近親者が城主を務めました。

特に、武田氏と織田氏の戦いでは、1582年に織田信忠の大軍に攻められ、城主の仁科盛信が壮絶な戦いを繰り広げましたが、最終的に落城しました12。

 

江戸時代の高遠城

江戸時代には高遠藩の政庁として機能し、保科氏、鳥居氏、内藤氏が城主を務めました。

特に内藤氏は長期間にわたり城を治め、城下町の発展にも寄与しました。

 

現代の高遠城址公園

現在、高遠城址は公園として整備されており、特に桜の名所として有名です。

春には約1,500本のタカトオコヒガンザクラが咲き誇り、多くの観光客が訪れます。

『高遠城址公園イラストマップ』 長野県伊那市

1        北ゲート

 

2        高遠閣

高遠閣

(登録有形文化財)

高遠閣は昭和八年当時、高遠城址公園内に会館を建て、町民の集会や観光客の便に供することが町の発展のため有意義ではないかという愛町の思いから、東京高遠会の有志の発案により、日本画家池上秀畝氏、出版業矢島一三氏、鉱山業廣瀬省三郎氏、 弁護士小松傳一郎氏の四名の寄附により、当時の町長廣瀬常雄氏の協力のもと棟梁竹内三郎氏を中心に建築が進められ、昭和十一年十二月六日に完成しました。

この建物は間口十四間(25.4m)、奥行九間(16.4m)、峯高十間(18.2m)、木造二階建、入母屋造、鉄板葺(建築当時はこけら葺)の大規模建物で、大正・昭和初期の希有の建物として平成十四年八月二十一日に国の登録有形文化財として登録され、長野県天然記念物桜樹林の中に高くそびえる赤い屋根の偉容は、遠方からも眺められ史跡高遠城跡 (昭和四十八年五月二十六日国指定)のシンボルとなっています。

平成十五・十六年の二ヵ年に渡り施設の保存及び有効活用を図るため、構造補強、 バリアフリー等の工事を行い、平成十六年十月十一日に完成しました。

地域住民の各種活動の場として、史跡高遠城跡を訪れ観光客の皆さんの休憩所等として利用されています。

この城は三峯川と藤沢川の合流する要害の地に天文16年(1547)武田信玄が、山本勘助等に命じて築かせた平山城である。

構成は、本丸を中心として東に二の丸、三の丸、南に南郭、宝憧院郭、西は一段低く笹郭、勘助郭となっている。

これらは、深い空堀によって隔てられ周囲には高い土塁が築かれ、石垣はほとんど使用されていない。

明治二年版籍奉還によって廃城となったが、土塁など多少改変された所はあるが、戦国的な城郭の構えをとどめている。

城主は、武田氏、保科氏、鳥居氏、内藤氏等である。

また城内三の丸には藩学校進徳館の建物がある。

時の規模そのままではないが場内にのこる藩校としては、全国でも数の少ない貴重なものである。

城跡と進徳館を含め和四十八年三月「史跡」に指定された。

 

高遠歴史博物館展示

左が藤沢川、 右が三峯川

 

3        二ノ丸跡

二ノ丸跡

本丸の東から北に廻っている曲輪で、外周は堀によって防備を固めていた。

三ノ丸から北口の木橋(現在は土橋)

渡ったところから冠木門[かぶきもん](棟門)、枡形[ますがた]、櫓門[やぐらもん]と続き、門を抜けると広庭[ひろにわ] (武者溜り)となる。

出征の時などは、この広庭に集合して隊伍[たいご]を整えたと言われている。

二ノ丸には時代によって変遷はあるが、役所向きの多くの建物が建てられ、厩[うまや]、土

蔵なども置かれていた。

また、この二ノ丸で往時の姿を留めるものに土塁がある。

これは、東側曲輪端に高遠閣の裏手から南に向かって延びる土盛で、深い堀切とともに城郭の姿をよく留めている。

 

4        二ノ丸と本丸の間の空堀

5        桜雲橋

 

6        問屋門

問屋門

この門は、高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門である。

江戸時代、主な街道には宿駅[しゅくえき]が定められ、問屋と称する公用の荷物の継ぎ送り、また、旅人の宿泊、運輸を取り扱う町役人をおいていた。

高速の問屋は、二人の名主[なぬし]との合議によって町政にも参与していた。

昭和二十年代、問屋役所建物取り壊しの際、他に売却されていたが、歴史ある門が高速から失われることを惜しんだ町の有志が買い戻し、募金を集めて現在地に移築したものである。

現在では、手前の桜雲橋[おううんきょう]とともに、城跡には欠かすことができない景観シンボルとなっている。

 

7        本丸跡

本丸跡

高遠城は巧みに天然の地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、東から北にかけて二ノ丸、さらに、その外側に三ノ丸を廻らした城郭三段の構えをもっていた。

天正十年(一五八二)城主仁科五郎盛信が織田軍に敗れ壮烈な戦死を遂げた後、高遠城の城主は保科氏、鳥居氏と替わり、元禄四年(一六九一)からは内藤氏が廃藩まで八代、百八十年間にわたって城主であった。

江戸時代、本丸には城主の権威の象徴たる天守閣はなく、平屋造の御殿や櫓、土蔵などがあった。

本丸御殿は政庁であるとともに藩主住居も兼ねていたが、廃城時、城内の建物は取り壊され、今では明治八年(一八七五)頃に移植された桜の古木が毎年美しい花を咲かせ、幾多の武士が眠るこの地に散華[さんげ]となって降り注いでいる。

高遠城の戦い(古戦場跡)

天正十年(一五八二)二月、織田信長は、信玄亡き後の武田氏の混乱に乗じて、一気呵成の攻略に転じた。

伊那口からの嫡男信忠率いる五万の兵の進攻に、怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高速に迫った。

時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか三千の手兵をもって敢然とこの大軍を迎え撃った。

古来「要害は必ず兵禍を被る」と言われるが、この城も盛信以下将兵決死の奮戦にもかかわらず、雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、三千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。

城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。

この後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。

高遠城の戦いは、かの強大を誇った武田氏の最後を飾る戦いの場となったのである。

8        新城(盛信) 神社

新城(盛信) 神社・藤原神社の由来

天保二年(一八三一) 七代藩主内藤頼寧[ないとうよりやす]は、家臣中村元恒の建議により、天正十年(一五八二)当城において織田の大軍を引き受け、壮烈な最期を遂げた武田信玄の五男、仁科五郎盛信の霊を五郎山より城内に迎え「新城神」と称して祀り崇拝した。

以前より城内には、先代内藤頼以[ないとうよりもち]が内藤家の祖神である藤原鎌足公を勧請[かんじょう]した「藤原社」があったため、廃藩後の明治十二年(一八七九)この神社を「新城神」と合祀して今日に至っている。

なお、宝物として内藤家寄進の甲冑、その他の文化財があったがそれらは現在、高遠町歴史博物館に保管されている。

 

9        太鼓櫓

太鼓櫓

江戸時代には、時を報じるのに太鼓を打っていた。

鼓楼は搦手門の傍にあって、楼上に三鼓を備え、常に番人をおいていて、時刻がくると、予備の刻み打ちを繰り返した後、時の数だけ太鼓を打って、時を知らせていた。

廃城の際、有志によって対岸の白山に鼓楼が新設されて時を報じていたが、明治十年(一八七七)頃に本丸、西南隅の現在地に移し、旧制どおり朝六時から夕六時まで偶数時を打つことが昭和十八年(一九四三)まで続いた。

戦後、太鼓は三ノ丸にあった高遠高等学校で、授業の開始、終了を知らせていたが、現在は、高遠町歴史博物館に展示されている。

 

10        南曲輪

南曲輪

本丸の南に位置する曲輪で、名君保科正之公が幼少の頃、母お静の方と居住したところと言われている。

形状は方形をなし、本丸とは堀内道、二ノ丸とは土橋でつながっていた。

本丸から南曲輪へは現在土橋となっているが、これは本丸南東の隅にある巨大な中村元恒・元起記念碑を建てるために造られたものである。

また、明治三十年(一八九七)それまで雑草や小笹が生い茂った荒地であったが、靖国招魂碑を建てるにあたり、地を削り広めて平地に整備したといわれている。

 

11        中村元恒・中村元起の記念碑

中村元恒(なかむら もとつね、1778年 - 1851年)は、江戸時代後期の医師であり儒者です。信濃国(現在の長野県)出身で、医師としての活動だけでなく、儒学の教育にも力を入れました。彼は「実学」を奨励し、藩医兼藩儒として高遠藩に仕えました。

 

中村元起(なかむら もとおき、1810年 - 1875年)は、中村元恒の次男であり、父の業績を引き継ぎました。彼もまた高遠藩に仕え、私塾を開いて教育に尽力しました。幕末には藩論を勤王にまとめ、新政府への帰順を周旋しました。明治維新後は筑摩県に出仕し、学校の創設に尽力しました。

 

12        白兎橋

白兎橋

文政の頃、高速で酒造業を営み、藩の仕送役を勤める廣瀬治郎左衛門 (一七六八~一八四三)は、その号を白兎[はくと]と称し、謡曲・俳諧・和歌などを嗜む風流人であった。

文政の百姓一揆の際には、自家の米蔵を開放して奉行所に押寄せた百姓らに与え、大事に至らせずにすんだという。

また、多町に通じる弁財天橋を自費で修理するなど、公共のために尽力した。

その曾孫、省三郎(奇壁)は私有地となっていた法幢院曲輪[ほうどういんぐるわ]を買上げ、それを公園として寄付した。

その時、南曲輪へ通じるこの橋を造り、曾祖父の俳号にちなんで「白兎橋」と名づけたのである。

 

 

13        法幢院曲輪

法幢院曲輪[ほうどういんぐるわ]

二ノ丸から堀内道[ほりないみち]で通じていたこの曲輪は、城郭の南端に位置し、曲輪の東方には幅六メートル、長さ百七十メートルの馬場が続いていた。

かつて、ここには法幢院というお寺があり、高遠城落城の際には、法要が営まれたが、城中という立地的制約があったため、一般の人も参詣できるようにと、城の東、月蔵山[がつぞうさん]のふもとの龍ケ澤に移り桂泉院と改名して現在に至っている。

この曲輪からは、西に中央アルプス、東に南アルプスが望め、桜の時は残雪が、紅葉のときは新雪が目にも清かに映る。

 

14        句碑

廣瀬奇璧[ひろせきへき]・河東碧梧桐[かわひがし へきごとう] 句碑

この碑の表は、高遠出身の鉱山業者で、高遠閣建設に尽力されたことで知られている廣瀬省三郎(俳号奇壁)の句で、遠く東の方、仙丈ヶ岳を眺めて読んだものである。

 

斑雪 高嶺 朝光 鶯啼いて居

 

裏面は奇壁と交流があった河東碧梧桐の句で、西方、駒ヶ岳の残雪の雪形が、駒(馬)の姿に見えるようになった情景を詠っている。

 

西駒は斑雪てし尾を肌脱ぐ雲を

 

また題字の「嶽色江聲」は高遠出身の近代洋画界の奇才で、独特のスタイルをもつ書家でもあった中村不折の揮毫によるものである。

 

 

15        南ゲート

16        高遠城大手門

高遠城跡公園から少し離れた所にあります。

伝、高遠城大手門

この門は高遠高等学校が、この地にあった昭和五十九年(一九八四)まで正門として使用されていた。

明治五年(一八七二) 新政府から城郭の取り壊しを命ぜられ、城の建造物や樹木は、競売に付されすべて取り払われた。

当時、城内には大手、二ノ丸、本丸搦手の四つの櫓門(間口五~六間、奥行二間の二層門)があったが、いずれも競売されて民家や寺院の門として払い下げられていった。

この門は、そのうちの一つで大手門といわれているが、その形は切り詰められ当時の姿ではない。

昭和二十九年(一九五四)に高速高等学校の正門として、伊那市富県の那須退蔵氏(亡)より寄贈を受け移築されたものである。

 

高遠城跡は、建物こそありませんでしたが、縄張りは、郭や空堀がかなり保全され昔の城郭が容易に想像できました。

高遠城の戦いについては以下に記載済みです。

高遠城の戦い

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