札幌のシンボルとして親しまれる「札幌時計台」は、1878(明治11)年に建設された木造2階建ての歴史的建造物です。国の重要文化財に指定されており、正式名称を「旧札幌農学校演武場」といいます。
今まで、外で写真を撮っただけで帰っていましたが、今回は中に入ってみました。
館内は1階が札幌の歴史や農学校に関する資料展示室、2階がかつての演武場の雰囲気を残す貸ホールとなっており、クラーク博士のブロンズ像と記念撮影ができます。
目次
1 外観


鐘の音

重要文化財 旧札幌農学校演武場(時計台)
この建物は、日本最初の農業高等専門学校として、 明治9年8月にクラーク博士を初代教頭に迎えて開校した札幌農学校の演武場であります。
演武場は、 講堂をかねた兵式教練場として第2代教頭ホイラー博士によって計画され、当時の米国中西部開拓地の木造建築様式にならって北海道開拓使工業局の設計監督のもとに建築され、 明治11年10月16日に完成しました。
時計塔は、明治14年に米国ボストン市ハワード時計会社製の時打ち重錘式の大時計を備えて設置され、8月12日の正式鳴鐘以来現在も往時の姿のまま時を告げ続けております。
北海道大学の前身である札幌農学校は、 北海道の開拓や日本文化の発展に寄与する多くの人材を育成しましたが、 彼らに愛され親しまれた時計台の鐘の音は札幌のシンボルといわれております。
時計台は公共的な施設として時代の変遷のなかで広く利用され、 札幌のそして北海道の教育文化の発展に大きな役割を果たし、 昭和45年6月国の重要文化財に指定され、現在は館内を札幌歴史館として一般公開しております。
時計台は、 札幌市の歴史と文化を象徴するものとして "わたしたちは、 時計台の鐘がなる札幌の市民です" と札幌市民憲章前章にうたわれ、 市民の誇りとなっております。

2 内部1階(資料展示室)



2.1 青い目の人形
友情の使者
アメリカと日本の人形交流
「いつまでも平和と友情が続きますように。」
そんな願いをこめて、 1927年(昭和2年) に12.379体あまりのメッセンジャードール ( 青い目の人形)が、アメリカの子どもたちから日本の子どもたちへ贈られました。
人形は、幼稚園や小学校に1体ずつ配られ、子どもたちから心のこもった歓迎を受けました。
その年、日本からもお礼として、58体の伝統的な振袖姿の日本人形を贈り、アメリカの子どもたちにたいへん喜ばれました。
人形交流を通して、日本とアメリカの親善とともに、両国の子どもたちの間にお互いの理解と深い友情が結ばれたのです。
太平洋戦争中は、アメリカを敵視する風潮の下で、敵性人形としてその多くが処分されましたが、ここでは大事に保管されていたようですね。
時計台の青い目の人形
ファンニー・ピオ (Fanny Pio)
私は、友情の使者として昭和2年(1927年)に643体の仲間の人形と一緒に北海道に来ました。
生まれは、アメリカのニュージャージ一州モントクレアです。
札幌の幼稚園で園児の皆さんと楽しく過ごしてきました。
昭和53年(1978年)に時計台に贈られてきて、「平和と友情」の証として展示されていました。 今回、傷んだ服を直してもらって、装い新たに皆さんとお会いできることになりました。
これからも、仲よくしてください。」
2.2 農学校遊戯会とチャチャニレの木
日本陸上大会の原点、 札幌農学校遊戯会
日本陸上競技の原点であり、日本学生陸上競技発祥の競技会で学生運動会のきっかけとされる 札幌農学校の遊戯会は、145年前の明治11年6月1日に札幌で開かれました。
しかし、この具体的な開催場所が、諸説が多くあって謎でしたが、このほど論文を全国誌に発表、「グランドホテル付近」とする結論をまとめました。 この論文は専門家の高い評価を受けています。
遊戯会は一般市民にも親しまれる初夏の一大行事でした。
また、学校スポーツにも影響が大きく、現在、学校等で開催されている運動会が、継続的か全国的に普及するきっかけとなったのも札幌農学校遊戯会であったとされています。
この成果を社会的にもっとその「知」 を広めようと、分かりやすくパネル化して公開展
示しました。 解説もご覧下さい。
2.3 時計台の概要
時計台は、現在の北海道大学の前身である札幌農学校の演武場として明治11年に建てられました。
演武場は、 講義室、 標本 室、 屋内体育場、 各種催事場の 機能を併せ持つ建物でした。
明治36年から昭和10年代後半までは教育団体の事務所、付属 図書館、 文化活動の場として利用され、 第2次世界大戦を挟む 昭和18年から昭和23年までは軍用施設、各種民間団体事務所と して使われました。
その後昭和 25年から昭和41年まで市立図書館として使用され、 図書館移転に伴い昭和42に復元工事を行いました。
昭和45年に重要文化財に指定されました。
2.4 札幌農学校と開拓使
明治政府は、北海道の開拓を進めるため、明治2年、 開拓使を設置 しました。
開拓使は、北海道の開拓に当たり欧米の経験、技術を導入するため、ケプロンを始めとする外国人 指導者や技術者を雇い入れました。
また、留学生を欧米に派遣してその知識、技術を吸収させるととも に、ケプロンらの進言もあり、国内での人材育成を図る準備を進めました。
明治5年、開拓使東京出張所があった芝増上寺内に学校が開設さ れました。
この学校は、専門の教育 機関として将来北海道に移すことを前提としていたため、仮学校と名付けられ、 札幌農学校の前身と なりました。
2.5 開拓使仮学校
札幌農学校の教科は米国マサチューセッツ農科大学に範をとっています。
専門の農業教育のみならず、知育、徳育、体育といった全人的教育を目指すという同大学の思想が反映されています。
また、英語による授業に力点が置かれていたことは札幌農学校の大きな特長でした。
札幌農学校ではアメリカ人教師による授業は全て英語によって行われていました。
生徒は講義内容をノートに書き留め、寄宿舎に戻ってから清書を行いました。
ちなみに、 農学校の規則には最低4時間の自習を行うことを生徒に義務づけていました。
初期の農学校生徒から優れた英学者が誕生した理由として、このような生徒と英語とのかかわりが挙げられます。
2.6 札幌学校
仮学校は明治6年3月に一時閉校し、4月に再開されました。 この時、専門科は2年後の明治8年に開設することとしていました。
明治8年7月、 仮学校を札幌に移し、 札幌学校と改称して9月に 開校式を行いました。
生徒は35 名で、パン焼き職人、コック、 靴 師らも同行しています。
女学校は明治7年に移転の予定でしたが、 生徒の反対に遭い、同じく明治8年8月に移転を行いました。 しかし、翌年5月には廃校 となりました。
開拓使では並行してアメリカか らの教師を迎える準備を進めていました。
2.7 札幌農学校
農学校開設に当たり、 明治9年3月、マサチューセッツ農科大学学長であったクラーク及びホイラー、ペンハロ一の雇い入れが決まりました。
同年8月、1期生24名を迎えて農学校の開校式が行われました。
開拓使長 黒田清隆の式辞、調所広丈の告辞、クラーク教頭の演説があり、生徒への激励と期待が述べられました。
札幌農学校の名称は9月に正式に決定しました。
単に農業教育機関としてばかりでなく、日本における高等教育機関としても、最も早く設置された官立学校の一つでした。
当時、 札幌の市中の人口は約3千人ほどで、誕生間もない小さな街でした。
農学校の発足は、 札幌が日本の近代文化の発信地の一つとして発展していく礎となりました。
2.8 演武場の計画
教頭クラークは、化学講堂、書 庫の設置や農園の拡張と模範家 畜房の建築など、施設の拡充に努 めました。 次いで教頭代理となったホイラーは、農学校本館 講堂、 博物場、 講義室) とミリタリーホールの設置を提案しました。
本館は、鐘楼つきのレンガ造り 2階建て、ミリタリーホールは木 造平家建ての案でした。 しかし、 開拓使は財政上の理由からか、施 設の縮小案を求めました。 このためホイラーは、2つの建物を1棟 にまとめ、木造2階建てとする設 計案を提出しました。 設計案は平 面略図と建築要領を示したもの で、これが現在の時計台 (演武場) 建築の始まりとなりました。
2.9 演武場の建設
ホイラーが提出した図面、指示書を基に開拓使工業局営繕課により実施設計が作成されました。
設計を担当したのは豊平館の設計も手掛けた安達喜幸であったと考えられます。
明治11年5月末、 演武場建築の許可が下り、6月に工事が発注されました。
演武場は農学校本館を兼ね校地の中央に位置することとなり、10月上旬工事が完成。
同月16日に開業式が行われました。
開業式では学生代表の佐藤昌介、大島正健、 荒川重秀らが英語、 あるいは日本語で演説を行いました。
なお、演武場の設計金額は4,748円で、実際の発注金額は3,869円でした。
2.10 時計台の設置
演武場の鐘楼に時計を設置するよう指示したのは黒田長官であると言われています。
ホイラーはアメリカのハワード時計会社に塔時計を注文し、明治12年6月、 時計機械が横浜に到着します。
札幌には8月に到着しました。 しかし、時計機械が大きく鐘楼に納まらないため、開拓使札幌本庁などの関係者はその対策に苦慮しました。 建築中の豊平館に取り付ける案などが検討され、 ホイラーの貴任を問う声も出ました。 ホイラーは、理路整然と釈明して開拓使を説得しました。
この結果、 鐘楼を改修し時計機械を設置することとなりました。
明治14年5月から8月にかけ鐘楼の改修を行い、 8月12日に時計は動き始めました。
こうして現在の時計台の姿になりました。
2.11 農学校の教育
当初の生徒たちは寄宿舎で起居していました。
午前中1時間の復習と4時間の授業が日課でした。午後は操練や農学実習の日がありました。
門限は夜7時でした。
授業の一環では、動植物採集や地質調査などの野外実習が行われ、石狩川上流や室蘭、長万部などへも出掛けています。 標本類は演武場1階の博物標本室に陳列されていました。
また、明治11年からは遊戯会 (運動(1878)会)が毎年開かれ、後には札幌の年中行事の一つになっています。
演武場では毎年卒業式が行われ、卒業生による英語の演説などが行われていました。
明治25年、生徒による 「学芸会」が設(1882)立され、定期的に集会や講演会が開かれました。
2.12 学生たちの生活
当初の生徒たちは寄宿舎で起居していました。 午前中1時間の復習と 時間の授業が日課でした。午後は操練 や農学実習の日がありました。 門限は 夜7時でした。
授業の一環では、動植物採集や地質 調査などの野外実習が行われ、 石狩川 上流や室蘭、長万部などへも出掛けて います。 標本類は演武場1階の博物標 本室に陳列されていました。
また、 明治11年からは遊戯会(運動会)が毎年開かれ、後には札幌の年中行事の一つになっています。
演武場では毎年卒業式が行われ、卒 業生による英語の演説などが行われていました。
明治25年、生徒による 「学芸会」が設立され、定期的に集会や講演会が開かれました。
2.13 札幌農学校の全景模型
びっくりするくらい、時計台の周りには建物がないですね。
明治36年の農学校移転後、 札幌区に貸付けられていた 時計台(演武場)は明治39年 に買収費1千円で札幌区に 移管されました。
同じ年、札幌区では北2 糸通りの敷設に伴い時計台 を現在の位置に移しました。
時計台は札幌農学校の史 跡として大切な価値を持っています。
2.14 時計台のエピソード
明治の時代、 札幌は数度の大火に見舞われます。 明治25年に起こった大火では、 農学校の学生たちが演武 場の屋根に登り、降り懸かる火の粉 から建物を守りました。 また、 明治 40年の大火では郵便局が焼失したため一時的に時計台で業務を行って います。 明治の後期には時計台の屋 根がそれまでの柾(まさ)ぶき屋根から鉄板 屋根へと改修され、 火災から時計台を守るための改良が行われました。
2.15 「時計台の鐘」と高階哲夫
名曲「時計台の鐘」により、 札幌の街と時計台は全国の人に知られることとなりました。
この曲は大正12年、高階哲夫が27歳の時に作詞、作曲したものです。
この年7月、彼は前年結婚した札幌出身 のアルト歌手ます子らと共に札幌を訪れ、 バイオリン演奏会を開きました。 3日後、 北海タイムスに厳しい評が掲載されま した。 気落ちした高階を、豊平館の杉山 正次らが札幌の街や郊外へと連れ出し 励ましました。
人々の暖かい気持ちと心を癒す風景 に触れ気を取り直して東京に戻った高階 が、その時受けた印象をまとめて生まれた のが「時計台の鍵」だったのです。
2.16 市民と時計台の関わり
時計の保守
1933(昭和8)年3月、36歳の時計技師 井上清さんが、時計保守の奉仕を始めました。
当時、時計塔についていた小窓のガラスが割れ、雨水が吹き込んでいるのを見て、保守奉仕を市役所に申し出ました。
手続きが必要という役所の返事を、 「重体の病人を見殺しにできるか」と強引に押し切り、修理にかかりました。
錆を落とすなどの徹夜作業の後、時計は再び動き始めました。
以後、2、3日おきに時計台へ通う生活が続きました。
時計台の鐘が清らかな音を響かせ続けてきた蔭には、頑固な職人の確かな技術と時計機械への愛情がありました。
(井上清さんは1996(平成8)年9月、 99歳で亡くなられました。)
3 内部2階ホール
3.1 階段


3.2 2階ホール
2階ホールについて
教会のように見えるこのホールは、明治32年に札幌農学校卒業生の佐藤昌介・南鷹次郎・宮部金吾に初めて博士 号授与翼後が行われた時の講堂の様子を復元しました。 札幌農学校当時の長イス・ 机を再現し特徴ある時計台の 小屋組や農学校当時の雰囲気をゆっくり堪能できるように 配慮されています。
ぜひ、イスに座り札幌農学校時代の学生の気分を味わってください。
クラーク博士との2ショットの記念写真も撮ることができます。


五稜星アーチの説明
札幌農学校当時の入学式や卒業式などの行事の時に、使用 されていた装飾品を再現しています。
デコレーションアーチの真ん中にある星は、時計台などの建 物の装飾と同じように、開拓使徽章をイメージしています。
開拓使徽章とは、北辰(北極星)をかたどった五稜星で、明治5年(1872) 開拓使 属船樺太丸の船長であった御用掛子末次郎が、北海道徽章を定めたいとする 伺いを提出し、紺地に赤の五稜星を配した徽章を考案し採用されました。
明治6年(1873)10月、札幌に完成した開拓使本庁の塔上には、 白地に赤く五稜星 を染め抜いた開拓使徽章が掲げられ、各支庁や出張所、官営工場でも使用され ました。
このほか五稜星は、各種の旗章や服章、建物の装飾、官営工場の商標などにデザ インされ、開拓使のシンボルマークとなりました。
その後も開拓使徽章は、北辰旗と愛称され、開拓精神のシンボルマークとして、 今に語り継がれています。
サッポロビールのロゴも五稜星を使っていますね。
3.3 時計台の建築構法
(1) 欧米の木造建築の構法
演武場(時計台)の建築構法は、当時米国中西部で流行していたバルーンフレーム
と呼ばれる構法をモデルにしているといわれています。
ここでは、欧米の木造建築構法の概要を図示します。
3.4 塔時計
E.Howard 社製 塔時計 3867
シリーズ番号3867番を記したこの塔時計は、1928年 頃にニューヨーク州コーンウォールのファースト兄弟絨毯製作工場に据え付けられていましたが、時代の変遷と共に電気時計にその座を譲り長年放置されてきたものを、今回塔時計修復の専門家である米国のバルザーファミリー社が製作時の姿に修復したものです。なお、この塔時計は、米国のE.Howard社の時計技師であったダナ・ブラックウェル氏と北海道工業大学 西安信教授との長年の親交に基づいて、二十余年に わたる探査の結果見つけ出されたもので、その取得・ 修復・展示は、札幌の医療法人社団 ひとみ会回明堂眼科医院が開業100周年記念事業の一環として取り 組み、同院より時計台へ寄贈されたものです。
平成10年10月
日本機械学会 「機械遺産」 第32号認定
札幌市時計台 (旧札幌農学校演武場) の時計装置
時計台の時計装置はアメリカ E・ハワード社製で、 演武場完成の3年後明治14年に時計塔を造り直して据え付けられまし た。以来、現在まで128年間、 オモリを吊るすワイヤー以外の部品は一切変えることなく当初の姿のまま正確に時を刻み 鐘の音を響かせています。 それは昭和8年より76年間時計を見守り続けている市内の井上時計店親子2代にわたる保守活動のたまものと言えます。 昭和45年6月、 演武場の建物とともに重要文化財に指定されましたが、このたび、 稼動して いる国内最古の塔時計装置として、 日本機械学会より 「機械遺産」 第32号の認定を受けました。 (2009年8月7日「機械の日」) (「機械遺産」は国内に現存する歴史的に意義のある機械遺産を選出認定するもので、 日本機械学会が2007年より取り組み、 今回を含め37件が認定されています)
ドラムに巻かれたワイヤーの先端におもりを吊るすと重力(下がる力)の作用でおもりが降下します。 この時、 ドラムに回転が起こり、この力により時計が動きます。 この駆動
方式を重錘式といい、 時計台の時計は、この方式により針を動かし、鐘を鳴らしています。
又、 振子の運動を持続させるためには、外部より力を供給しなければなりません。 その働きをするのがおもりです。 時計台の時計のおもりには、木箱が使われており、木箱の中には、 豊平川の玉石が入っています。
木箱に玉石を入れたおもりを使う理由として、万一、おもり が落下したとき、 時計機械を壊さないためと、 建物の損傷 を防ぐためです。
もし、おもりが落下したときには、 木箱が床につき、 箱が壊 れて玉石を散乱させて、時計や建物にかかる衝撃を防ぎます。 このような考えは、 今から 140年も前のハワード社から送 られてきた時計設置法に記されていました。
札幌市時計台の時計装置
札幌市時計台は 1876 (明治9)年に開校した札幌農学校の演武場として1878(明治11)年に建てられた建物です。 当初は鐘楼が設けられていましたが、 完成式に臨席した黒田清隆開拓長官の発案で、1881(明治14)年に時計塔が設置されました。
時計機械は米国ボストンのハワード社製で、設置当初の機構が128年を経て現在も稼働しているという点で、国内現存最古の塔時計として、2009年8月7日、 日本機械学会 「機械遺産」 第32号に認定されました。 1970年(昭和45年)6月17日、 建物とともに国の重要文化財に指定されています。

塔時計機械の取扱方法
週に1度決まった時刻に “おもり” を巻き上げること。 その時、 ハンドルが他の歯車に触れないように慎重に軸に取付け、ハンド ルがはずれぬよう軸にピンを差しておくこと。
時刻を合わせるには真中の車 (2番車) と接続している60ヶの穴のある円板 (60の穴の1つが1分にあたる)よりピンを引出し、 別の手で上方にある針回し装置を慎重にまわし、 ダイアルが指針 で正しい時刻を示した時にまわすのをやめ、ピンを戻すこと。 時計が数分進んだ時は、 振子を正しい時刻が来るまで止め、 再び振子を動かすのが最良の方法である。
時計を進めるときには、 上にある調整ナットを左にしずかにま わして振子を上げ、 また遅らす時には反対にまわすこと。
脱進機には、極上のウォッチオイルを3月に1度注油すること。 また、 運針軸受けには、 同じ油を6月に1度さすこと。 打鐘軸受け と四面分配装置、 日の裏装置にはクロックオイルを6月に1度さす こと。 それぞれの油は当社または時計店へ注文すれば求められるので、決して他の油を使わぬこと。 時々汚れた油は、 新しい油 を差す前に布で拭き取ること。 また機械の中で数カ所2つの表面 がすれあって、摩擦を起こす場所があるので、そこへは時々油を さすこと。
滑車のベアリングは、年に1度クロックオイルをささなければ いけない。 ベアリングへの油穴は滑車装置の丁度外側の端にあり、 中空で油がかなり入れられるので十分入れること。
マサチューセッツ州ボストン市
イー・ハワード会社
左側の木の枠の中には時計の針を動かすためのおもりが、右側の木の枠は鐘を打つためのおもりがつるされています。
どちらのおもりにも豊平川の玉石が使われており、針を動かすおもりは50kg 鐘を打つためのおもりは150kgあり、 これを人の手により3~4日に1度巻き上げています。
なお、針を動かすおもりは2階の途中までとなっており、鐘を打つためのおもりは1階まで突き抜けています。
2本のロープが下がっていますが、 これは時刻に関係なく鐘を鳴らすためのもので、太いローブは大きな音で周囲に知らせる場合に使用、細いロープは、小さな音で館内に知らせる場合に使用されていました。 (現在は、使用されていません)
こちらが時計を動かす重りで、
こちらが鐘を打つための重り
日本に現存する機械式塔時計
明治初年より、時計塔の建設が数多くあり当時の の建造が最盛期でした。 わが国の時計塔は、明治 きな建物に時計が備えられました。
重式 (重りの力で時計機械を動かす) で、 明治時代はそ 竹橋陣営 (近衛歩兵隊営所)を始めとしてその後続々と大
しかし、大正、昭和と時代が下がるにつれて時計塔の設置は下火となり、 形式も機械式時計から電気時計に変り、 昭和40年後半からはクォーツ時計へと変りました。
明治、大正時代には全国で72ヶ所以上あった時計塔はほとんどクォーツ時計に変えられたり、建物の老朽化により 取壊されたり、 関東大震災、第二次世界大戦の戦災のために焼失してしまいました。
現在も当時の姿のまま時を刻んでいるのは、 札幌市時計台・安芸市野良時計・山形県旧県庁舎時計塔・立教大学 モリス館時計塔の4ヶ所しかありません。
札幌市時計台
1881年始動
動力 重錘式
旧札幌農学校演武場 (札幌市時計台) に塔時計が設置されて130年経ちましたが現在でも一部ピンなどを除いて部 品は最初から交換したものはなく、オリジナルのまま動きつづけている塔時計は世界中にも数少ない貴重な時計と なっております。 この様に長寿命、高精度を維持しているのは時計機械のすばらしさにあります。
すべての構造に無駄がなくシンプルに造られ、それでいて性能、精度に関しては非の打ち所がなく明治の時代に 時計の理論、 技術共に完成していたことを示しています。
また、時計の設置については、改築して取付けたとは思えないほど各部品が完璧に設置され、当時の識見、配慮、 技術のすばらしさには特筆に値します。
時計機械は E・ハワード社製でおもりには運針用が340×340×620ミリメートルの木箱に小石をつめ重量約50kg、 打鐘用には485×360×1180ミリメートルの木箱に玉石をつめ重量約150kgのものを利用しています。 またおもりの 降下量は一日に運針側が0.7メートル、 打鐘側が2.5メートル降下します。 このおもりを4日ごとに人力で巻き上げ 時を刻み、鐘を鳴らしています。
運良く3~4日に1度の巻き上げに遭遇。
巻き上げている最中も時計は正確に時を刻んでいるとの事でした。
札幌の街の様子は以下































