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町田薬師池公園の散策

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町田薬師池公園は、「新東京百景」や「東京都指定名勝」にも選ばれた町田市を代表する歴史ある公園です。

中心にある大池(薬師池)を囲むように遊歩道が整備されており、四季折々の自然を楽しめるのが魅力です。春の桜、初夏の梅雨に映えるハナショウブ、秋の鮮やかな紅葉など、1年を通じて美しい景観が広がります。

園内には、江戸時代の建築様式を今に伝える国指定重要文化財「旧永井家住宅」などの古民家も移築されており、歴史を感じながらの散策に最適です。また、隣接する「西園」にはカフェや直売所もあり、歴史・文化・休息が調和した、落ち着いた時間を過ごせるスポットです。

 

1       西園

1.1      売店

売店の前は有料の駐車場です。

1.2      原っぱ

1.3      果樹園

パパイヤと思われます。

へびうり

売店で売ってました。

2       薬師池公園

2.1      福王寺薬師堂

参道付近の神社ですが、登らなかったので、名称が分かりませんが、「野津田神社」の奥社(あるいは境内社としての小祠)に関連する場所ということです。

東京都指定名勝

福王寺旧園地(薬師池公園)

所在地 町田市野津田町三四二四番地ほか

指 定 平成十年三月十三日

薬師池公園のある野津田村は、古い記録によると野蔦とも書き、戦国時代には北條氏照の支配領域であったことが知られている。

高野山真言宗華厳院は、天平年間(七二九~七四九)行基の開基といわれる寺院であり、室町時代末には荒廃していたのを元亀四年(一五七六) 僧興満(こうまん)が暖沢(ぬくざわ)に再興し福王寺薬師堂と称した。

現在野津田薬師といわれている薬師堂は、福王寺薬師堂のことで明治十六年(一八八三)の再建である。

薬師池は野津田薬師のほとりの池の意味であり、江戸時代には福王寺溜井(ためい)といわれていた。

薬師堂周辺のクヌギやコナラの雑木林は、古くから郷土の誇りとなる原風景として親しまれており、都市開発が進んだ現在も武蔵野の雑木林の面影をよく残している。

また毎年地域住民の協力で炭焼きも行われており、薪炭林としての機能も認められる数少ない二次林の一つとして重要であり、郷土景観として名勝に相応(ふさわ)しい地域である。

庭園や公園のような人文的名勝ではなく、二次的自然景観の価値文化財として評価された最初の自然地理的名勝である。

平成十一年三月三十一日  建設

東京都教育委員会

町田市指定有形文化財

指定年月日 一九八七年 (昭和六十二年)十二月十一日

薬師堂 木造薬師如来坐像

薬師堂の本尊像。 欅材の一木造、素地(きぢ)、彫眼(ちょうがん)の像で、頭体幹部を一材から彫成(ちょうせい)して内刳(うちぐり)は行わず、両脚部 (横一材、底部から刳(く)る)を矧(はぎ)つけ、左手首を差し込み、右肘、首(右前脾部(ぜんぱくぶ)後補)を矧ぐ。螺髪を始め、衣部の襞、体軀の微妙な肉取りなどが省略されており、極めて素朴な表現の像である。

恐らく、この地付近の素人的仏師によって制作されたものであろう。

構造や技法から推測して平安後期、十一世紀頃の作と考えられる。 当市内屈指の古い仏像の一つとして、当地方の古代史にとって重要な作品である。

像高七〇・六センチメートル

木造薬師如来坐像

町田市教育委員会

2.2      薬師堂休憩所

采女霊神のゆらい

天津児屋根尊の子孫である北小路左衛門慰藤原春公の三男采女介が、天文年間(1532年~1555年)に髪結職を創始した。

降って十一代の長七郎が三方原合戦の時、徳川家康公にお供して天瀧川で浅瀬を案内したことによって、銀、銭、刀等を賜り、天正十八年(1590年)江戸城に召された。

そして町奉行所に関する仕事を授けられ、長脇差を許される等、特典を与えられ多いに用いられた。

これを記念して、春公二十七代の藤原半蔵基之が、その大要を由緒書きによって石に刻み、同好諸氏に示したものである。

町田理容組合

2.3      旧永井家住宅

国指定重要文化財 永井家住宅

この民家は、もと町田市小野路町瓜生三六三番地現多摩市永山)にあった永井卓実氏の住宅で、同家は農業を営むその地域の旧家であったが多摩ニュータウン建設区域内にあたった為、取りこわされることになった

町田市では、この住宅を文化財として保存すること決定し昭和四十九年永井氏から同住宅の寄贈を受けたで当公園内に移築復原修理工事を実施した。

建築年代についての文献史料はないが、構造様式等に注目する点があり、土間の独立柱や前面の格子窓および竹簀子(たけすんこ)床からみて、十七世紀末を降らないと推定される。

建築後、増築や補修および間取りの変更があったが、主要部材の大部分は当初のまま遺存していた。

なお同住宅は、昭和四十八年七月十八日に東京都の重要文化財に指定され、昭和五十三年一月二十三日に国の重要文化財に指定された。

昭和五十六年一月一日

町田市教育委員会

芝棟(しばむね)

古民家の屋根の上に生えている植物は、屋根の棟を植物の根で補強する「芝棟」という建築技術です。

ここにあるものは旧永井家住宅の屋根にあった

もので、補修のために屋根からおろしています。

なかなか近くで見られないものですので、この機

会にぜひご覧ください。

町田市教育委員会生涯学習総務課

 

町田の民話と伝承

多摩の特産・禅寺丸の木

禅寺丸の発祥の地は、川崎市麻生区の名刹・王禅寺である。

本堂の前には、現在「王禅寺のカキの原木」のひこばえが育っており樹齢四百五十年以上と伝えられる。

元弘三(一三三三)年、新田義貞が鎌倉へ攻め入るとき、 王禅寺は全山ことごとく焼き払われた。

再興にあたったのが等海上人である。寺領の山に入って建築材を探していると、赤い果を着けた柿の木に出会った。

食べてみると類をみない甘い柿なので、本堂の前に移植したのが、南北朝時代の応安三(一三七〇)年である。

この原木から苗木を育て、近在の農家に植えさせると、たちまち鶴見川沿いの農村へと広がり、多摩の名柿・禅寺丸の産地が生まれた。

江戸のヤッチャバ(市場)で「禅寺丸」と呼ばれるようになったのは、元禄年間(一六八八~一七〇四)といわれている。

以後、明治、大正、昭和にわたって、禅寺丸は『多摩の特産物』としてその名を轟かせた。

昭和十(一九三五)年の秋、 北原白秋は禅寺丸の里」を旅した。

そのとき王禅寺から三輪町の高蔵寺を訪れ、次の二首を含めて七首の歌を残す。

高蔵寺しずかやと散る葉眺めゐて

梢の柿のつやつやしいろ、

柿もみじ幾葉ちりつぐしずかなる

夕空ありて照る玉さはに

昭和三十年代(高度成長時代)に入り、富有柿や次郎柿が豊富に出回るようになると、禅寺丸は商品価値を失った。

町田市ではそれを惜しみ「禅寺丸柿ワイン」として名柿・禅寺丸の復活をはかっている。

町田の民話と伝承第二集・町田市文化財保護審議会編から)

二〇〇〇年三月 町田市教育委員会

 

2.4      医薬門

医薬門

この門はもと大和市下鶴間1850の番地の瀬沼靖枝家の門でしたが町田市で寄贈を受け昭和49年この場所に移築しました

この建物の製作年代は昭和12年で欅材が主体になっています。

昭和四十九年

 

2.5      旧荻野家住宅

東京都指定有形文化財(建造物)

旧荻野家住宅

所在地 町田市野津田町三二七〇

町田市立藥師池公園內

指 定 昭和四九年八月一日

江戸時代末期、荻野衛門が町田市三輪町(旧字・下三輪)に医院として建てたものです。

茅葺、入母屋造、建坪四四坪(一四五・五三mm)で、四つの部屋と二つの土間から成っています。

表の向かって右側の六畳間には薬棚があり、調剤室として使用され、隣りの九畳間で診察を行なっていたと思われます。

手前の二間続きの部屋を居住部分としていました。

明治元年(一八六八)に衛門は亡くなりましたが、その後も荻野家の住宅として使用されていました。

昭和四八年(一九七三)に町田市の所有となり現在地の町田市立薬師池公園に移築されました。

間取や表構の建具等に町屋に近い点が認められる農村部の医家であり、外観・内部の意匠によく幕末の雰囲気が表現さ表現されている民家という点で、珍しい建物です。

平成二二年三月 建設

東京都教育委員会

板倉(いたくら)

この建物は、板倉と言い農家の屋敷內の日当たりの良い場所に建てられ米や雑穀を籾のまままま保存する為使われました。
この板倉は、町田市相原町の渋谷十三氏宅にあったもので、江戸時代末期に建てられたものと思われます。
昭和十八年十二月に解体し六十年一月に復元しました。
ました。
構造体は、五つの室からなっており、各室とも三方の壁、床、天井を、板で囲い前面は、揚げ板となっていて、この揚げ板を引き上げて穀物を出し入れするようになっています。4
地方によっては、揚げ板の下部に穀物の取り出し口を設けたものもあります。

掘っ建て柱の上部に付いている板は、ねずみ返しと言い、ねずみの侵入を防
為に、付けられています。
町田市

建物全体を撮影して来るのを忘れました。

2.6      水車

水車について

水車には、上掛け、胸掛け、下掛けの三種類がありますが、これは上掛け式です。

昭和の初め頃までは、市内の小川のほとりに地域住民の共用や精米業のものを見ることが出来ましたが、電気の普及と精米機の発達により現在では殆ど見ることは出来ません。

この水車で搗ける米の量は、一つの白で約三十キログラムですが、現在の精米機とちがい途中で数回糠とりをして搗き上げます。

この水車は、市内大蔵町在住の水車の名工金沢留吉翁が青少年の教育に資し、かつ薬師池公園に風情をそえる目的をもって製作寄贈されたものであります。

昭和五十年二月

 

2.7      薬師池

春になると畔の桜が満開になり、さぞ美しい景色をみせてくれるものだと思います。

町田の民話と伝承

薬師池の大蛇(おろち)

江戸時代後期の天保年間に大飢饉が起こった。

町田市域も例外ではなく、このため多くの人が飢え、潰れ百姓が多くでた。

とくに天保七(一八三六)年の飢饉はひどく、五月は長雨が続き、七月、八月には台風も加わって大雨の日が続いた。

このため、作物はみのらなかった。

毎日の雨で、薬師池の水は満々とたたえられ堤防は今にも決壊寸前だった。

野津田村の百姓弥兵衛は、しとしと降り続く雨の中を水田の見廻りにでかけた。

薬師池の水門までくると、暮れ六つの鐘の音が聞こえた。

薬師池の方を眺めると、田舎にはまれな美人が蛇の目傘をさして近寄ってきた。

「ちょっと、ものをお尋ねしますが、 由木(現・八王子市)の長池に行くにはどのような道順をたどっていけばよいのでしょうか」と透き通るほど澄んだ声でものやわらかに弥兵衛に尋ねた。

弥兵衛は丁寧に教えてやった。

その娘は厚く礼を述べて立ち去っていった。

弥兵衛もわが家に向かったが、この雨の降る日暮れに若い娘が由木まで行くのは大変なことだと思い、どうしても今の娘が気懸かりになり後を振り向いた。

その瞬間、弥兵衛は驚きと恐怖で目がくらんでしまった。

今教えてやったばかりの坂道を、直径三十センチメートルもあると思われる大蛇がすべるような速さで由木の長池の方向を目指して、一目散に直進していく姿がはっきりと目にうつったのである。

さては、先の娘は弁天様の化身であったのかと、驚きと恐ろしさを背に浴びながらやっとの思いでわが家にたどりついた。

それ以来、薬師池の水量は次第に減り、堤防決壊の災難をまぬがれたという。

この話は、薬師池にまつわる伝説で、薬師池の主といわれた大蛇はその後もながく棲息した。 昭和初期ごろまで、野津田や山崎の人は、晴れた日に銀杏の大樹の上にとぐろを巻いたり、枝渡りしたさまを見たという。

(町田の民話と伝承第二集 町田市文化財保護審議会編から)

二〇〇〇年三月 町田市教育委員会

広い公園なので、一日中ぶらぶらして過ごせます。

季節ごとに草花の見時があるので、花の開花に合せて訪れるとまた楽しめます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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