随分前ですが、2025年12月の休日に上野へ行って来ました。
中国からの訪日客が激減したものの相変わらず街は人であふれていました。

目次
1 サンタクロースのオブジェ
大小のサンタクロースが上野公園の入口でお出迎えしてくれました。

子供達も楽しそう。
2 特設ステージと屋台
特設ステージでは歌手?がクリスマスソングを歌っていました。

屋台で買って来た飲食物を囲んでテーブルで歓談。



銀杏は色付いています。(これって12月にしては遅い?)
2025年の夏は暑く、永遠に冬が来ないかと思いましたが、やはり冬は来るもんです。
3 上野東照宮
クリスマス雰囲気からすこし距離があるため、こちらは少し閑散としています。

上野東照宮(国指定重要文化財)
台東区上野公園九番
藤堂高虎(一五五六~一六三〇)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。
これが上野東照宮の創建といわれている。
あるいは寛永四年(一六二七)、宮祠を造営したのが
創建ともいう。
もとは「東照社」と称していたが、正保二年(一六四五)に宮号宣下があり、それ以後家康を祭る神社を東照宮と呼ぶようになった。
現在の社殿は、慶安四年(一六五一)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。
社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿(へいでん)、本殿からなり、その様式を権現造りという。
社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。
唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠四十八基と合わせて国の重要文化財に指定されている。
平成二十一年三月
台東区教育委員会
3.1 水舎門

3.2 参道


3.3 旧東照宮五重塔


旧東叡山寛永寺五重塔(旧東照宮五重塔)
寛永八年(1631年) 土井利勝により上野東照宮 (寛永四年(1627年) 創建)の一部として五重塔が建立、 寄進されました。
寛永十六年(1639年) 火災により焼失、 甲良宗広らにより同年再建されたのが現存する五重塔です。
以前この場所には五重塔への参道がありました。
ですから五重塔の正面は今ご覧になっている面です。
明治時代に神仏分離令が発令され、 五重塔は仏教施設であることから全国の神社所有の五重塔は多くが破壊されました。
当宮の五重塔も取り壊しの対象となりましたが、 美しい姿を何としてでも残したいと考えた当時の宮司は熟慮を重ね、 五重塔を手放すこととし塔は寛永寺の所属であると国に申し出ました。
東照宮五重塔は寛永寺五重塔と名前を変えましたが、その機転により取り壊しは免れました。
寛永寺の所属となったものの、 寺からは距離があり管理が難しいことから昭和三十三年 (1958年) 東京都に寄付されました。 現在は動物園の敷地内にございます。
塔の高さは約32m。
江戸時代の多くの五重塔が初層から第四層までを和風、 最上層のみを唐様風とするのに対し、この塔は全層が和風様式です。
建物内部には心柱が塔の土台の上にしっかりと建てられ、 塔の頂上にある青銅製の相輪まで貫いています。
心柱が釣られた懸垂式と呼ばれる建築構造が江戸時代の五重塔に多く見られるのに対し、 この塔は土台にしっかりと建てられた桃山時代建築の五重塔に良く見られる構造で建てられています。
屋根は初層から第四層が本瓦葺、 最上層は銅瓦葺を使用しています。
初層上方には十二支の彫刻が、各層の軒下の角隅部には四頭ずつ龍の彫刻が配されています。
関東大震災でも倒壊せず戊辰戦争や第二次大戦でも焼失を免れた 江戸初期の建築様式を伝える優れた建築の一つとして明治四十四年(1911年) 国の重要文化財に指定されました。
以前塔の初層内部には心柱を大日如来に見たて、それを中心にして東寺大仏師職法眼康猶の作と伝えられる彌勒・ 薬師 釈迦 阿弥陀の四体の仏像が安置されていました。
第二次大戦中、 五重塔は管理が行き届かず扉は壊れた状態でした。
その内部に仏像が置かれたままになっているのを発見した当時の宮司は、仏像の破損や盗難を防ぐため、急いで東照宮境内に四体を引き取って大切にお守りし、 戦後寛永寺にお返ししました。
現在この四体の仏像は東京国立博物館に寄託されています。
上野東照宮
3.4 狛犬

狛犬(高麗狗)
奉納 1914年(大正三年)
南側(社殿向かって左) 吽形(閉口)
北側(社殿向かって右) 阿形 (開口)
狛犬自体の大きさ 高さ115cm 前後120cm 幅60cm
狛犬は三大石工の一人とされた 「井亀泉」 酒井八右衛門の作で、 筋骨隆々の力強さが特徴である。
台座の字は隷書を得意とした書家 中根半湖の書。
当時の社司 (現在の宮司に相当する役職)は子爵松平頼安。
三島由紀夫の曾祖母の兄にあたり、三島の著作「神官」などいくつかの作品に登場する。
狛犬とは犬に似た日本固有の想像上の生物。
古来より、神社仏閣を守ると信じられ、左右一対で奉納されることが多い。
古代インドで仏像の守護獣としてライオン像が置かれたものが起源とされている。
それが中国で獅子の形となり、仏教とともに朝鮮半島を経て日本に伝わった際に、犬のように表現されるようになったと言われている。
当宮の狛犬は左が閉口した形、右が開口した阿形で、左右で阿吽(あうん)の形となっている。
阿は口を開いて最初に出す音、は口を閉じて出す最後の音であることから、「阿吽」は宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされ、狛犬や獅子、仁王など、一対で存在する神社仏閣の像には阿吽の形が良く見られる。
3.5 唐門・本殿
初めてここに来たときは、金ピカで驚きました。


3.6 御三家灯籠


御三家灯籠
これら唐門両側の六基の銅灯籠は家康公36回忌である慶安四年(1651年)四月十七日に奉納された。
尾張・紀伊・水戸の 「徳川御三家」 より2基ずつ奉納されたもので、すべて重要文化財に指定されている。
笠の龍が舌を巻いているようなモチーフは 「蜃 (しん)」 という想像上の動物でロから気を吐き蜃気楼を作るといわれている。
火袋の天女の装飾が美しく精巧である。
灯籠の奉納者は唐門より順に以下のように並んでいる。
・紀伊 從二位大納言: 徳川頼宜 (家康の十男)
・水戸 正三位権中納言 徳川頼房 (家康の十一男)
・尾張 從三位兼右近衛權中 徳川光義 (家康の孫、家康の九男義直の子)
御三家の中では尾張・紀伊 水戸の序列が一般的なので、通例だと兄弟の順からも九男が興した尾張家が一番唐門側に来るのであるが、 奉納の前年に義直が他界し、子の光義(後の光友) が家督を継いだばかりでまだ官位も低かったため、唐門から最も遠い場所に奉納し、 このような順になったと考えられる。
調査協力 代田照彦氏
東照宮略記
祭神 徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜
缘起 元和2年2月見舞のため駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言された そこで高虎の家敷地であるこの上野の山に寛永四年(1627年)に本宮を造営した
その後将軍家光はこの建物に満足出来ず慶安4年現在の社殿を造営
替えし、江戸の象徴とした。
文化財 唐門(左甚五郎作竜)透塀拝殿(全色殿)幣殿
本殿棟礼-
銅灯篭表参道大石鳥居-以上重要文化財
紅葉山鳥居(寛永3年)石灯篭220基 主に(慶安4年)
水舎門(慶安4年) お化灯篭(寛永8年)
新門辰五郎水舎(明治6年)
神楽殿(明治7年匂配の美 都下随一)陣羽織(都重宝) 辻ヶ花染胴服(都重宝)
藤堂高虎は浅井長政に仕えていましたが、浅井滅亡後に羽柴秀長に仕え、最後には家康とこんなにも懇意になっていたとは驚きです。
3.7 噴水広場の屋台

噴水広場にも沢山の屋台が並んでいました。


