史跡

京都・知恩院 3年ぶりに訪問した。

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3年ぶりに知恩院に納骨に行って来ました。

前回は奥の院が工事中だったため、御影堂の裏手は見学できませんでしたが、今回はしっかりと見て来ました。

前回の記事は「浄土宗総本山・京都知恩院へ納骨に向かう

1       三門

国宝の三門(三解脱門)は相変わらずの荘厳さです。

でも今回、行きは京都駅からタクシーで丘の上の御影堂まで行きました。

2       御影堂(みえいどう)

納骨はここで行います。

3年ぶりでしたが、納骨の冥加料(分骨)は料金が根上がりしていました。

それも結構・・・・。

3       集会室(しゅうえどう)

御影堂の裏側に回ると、集会場へ続く渡り廊下があります。

知恩院の「七不思議」の一つとして知られる「鴬張りの廊下」で、歩くと鳥のウグイスの鳴き声に似た?キュッキュッという音が出ます。

渡り廊下7から右手下を見た所。大方丈の屋根が見えます。

この鬼瓦は、「御影堂(みえいどう)」の屋根に、かつて実際に載っていたものです。

2011年から2020年にかけて、国宝・御影堂の「平成の大修理」という大規模な屋根の葺き替え工事が行われました。

庭にオブジェとして置かれています。

源智上人造立阿弥陀如来立像(げんちしょうにんぞうりゅうあみだ にょらいりつぞう)

重要文化財 木像 漆箔像高 98.7cm 鎌倉時代 建暦2年(1212)

建暦2年(1212)1月25日に亡くなった法然上人の一周忌のために、弟子の勢観房源智上人(せいかんぼうげんちしょうにん)が発願し造られた三尺の阿弥陀如来立像です。

手に来迎印を結び、 左足をわずかに踏み出しています。

これは人々を極楽浄土へ導くため、 阿弥陀さまが今まさに歩み寄ろうとする瞬間の姿です。

お像は一材から頭と体を彫りだし、二つに割ったあと、 内側をくりぬく 「一木割矧造(いちばくわりはぎづくり)」という技法で造られました。

内側にも金箔が貼られ、 初めから物品の納入が計画されています。

また、 内側から水晶をはめ込む「玉眼」により輝く瞳は、温かくも力強い眼差を感じさせます。

日本の仏像の代表的な様式のひとつ安阿弥様の初期の作例で、仏師快慶の工房で造られたとみられます。

1974年、文化庁と滋賀県の調査で信楽町玉桂寺からお像が発見され、後のX線調査で内部に巻物状のものが確認されました。

1979年の解体修理で胎内文書が取り出され、 はじめて源智上人の呼びかけによってお像が造られたことが判明しました。

2010年には、鎌倉時代に始まった浄土宗の最初期の様子を伝える重要な仏像として、 浄土宗の所蔵となりました。

お像の発見から約50年、法然上人浄土宗開宗 850年を記念し、 2026年春より集会堂のご本尊としておまつりしています。

重要文化財 集会堂(しゅうえどう)

建築様式:桁行3間 (42.9m) 梁間5間 東面のみ6間 (23.7m) 単層入母屋造 本瓦葺 (約7万5千枚)

集会堂は 「衆会堂」とも称し、古くより法要前に僧侶が集まり整列する場所、 また誦経(じゅきょう)・講学などで僧侶が集う道場としても使用されています。

寛永12年(1635) 徳川家光の命により再建され、 屋根妻の構造や蔀戸(しとみど)・唐戸に建立当時の様式を残しています。

平成9年(1997)国の重要文化財に指定されました。

その広さから俗に「千畳敷」ともよばれて、 明治5年(1872) には第1回京都博覧会の会場になりました。

現在仏間には金色の須弥壇が置かれています。

平成23年(2011)に全国の檀信徒(だんしんと)の浄財により製作された須弥壇は、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)に示される金銀瑠璃の極楽浄土の宮殿を思わせる須弥壇です。

この須弥壇内部には、 もとの須弥壇と高欄(こうらん)が保存されています。

もともとは仏間中央に黒漆塗(くろうるしぬり)の禅宗様須弥壇を構え、 後ろ側は黒漆塗の来迎壁、 前側三方には禅宗様高欄を配置していました。

禅宗様須弥壇は上下框(かまち)の間に繰型(くりがた)と呼ばれる曲面を持つ部材を挟み、中央の羽目板に向かって細くくびれる形が特徴です。

また、 高欄親柱には逆蓮と呼ばれる蓮華を逆さにしたような形の装飾がつけられています。

平成大修理以前は高欄等全体に朱漆が塗られていましたが、脇壇を撤去したところ、もとの黒漆塗部分が発見されました。

この朱漆塗への改変は漆塗工事を行った天保6年(1835) と推定され、歴史的価値を高めるため大修理の際に朱漆塗から当初の黒漆塗へ復原されました。

 

4       唐門

唐門(からもん)という名前は、中国(唐)から渡ってきた様式ではなく、日本の伝統建築美である「唐破風(からはふ)」と呼ばれる独特な曲線屋根を持っていることに由来します。

5       方丈庭園

 

大方丈です。

大方丈

寛永十八年(1641)に建立された大方又は、正面三十メートル、奥行き二十五メートルの重厚な建物で、京都随一の名書院として知られている。

十一の部屋から成り、美しい襖絵や障壁面で有名である。

これらの豪華な絵には、菊や髪、柳や松、梅や鶴が描かれており、狩野派の作である。

その華やかな色使いは洗練された気品を感じさせる。

上段之間は江戸時代に、将軍が大名と謁見する時に使われた。

突き当りは小方丈。

小方丈は、正面二十二メートル奥行き十九メートルの入母屋造で寛永十八年(1641)に建立されました。

将軍が上洛された折にお泊りになった所で、この建物は六つの部屋から成り、貴重な襖絵や障壁画でよく知られている。

これらの絵は、江戸時代に完成された狩野派の傑作で、簡素な筆使いに特徴があり、部屋に落ち着いた雰囲気を与えている。

三代将軍御手植の松(三代目)

・・・・ということは、お手植えの松が植えられていたところに別の松を植えたという事なのでしょうか? お手植えではない!

【二十五菩薩の庭】

この庭は、知恩院所有の国宝 「阿弥陀如来二十五菩薩来迎図」を基にしたもので、臨終の時に、念仏を称えれば阿弥陀如来と二十五菩薩がお浄土へ迎えてくださる様子を作庭したものである。

庭に配置されている石は阿弥陀如来と二十五菩薩を、植え込みは来迎雲を表している。

いわれてみれば植え込みは来迎雲のようのも見えます。

5.1      権現堂

権現堂

正式には権現様影堂と称する。

知恩院と浄土門のために外護者となって、現在の輪の美の基礎を築いた徳川家康、秀忠、家光三代の霊をまつる廟字である。

たび重なる火災によって焼失、現在の建物は、昭和四十九年浄土開宗八〇〇年を記念して再建されたものであり、お茶室は葵庵と名付けられ庭園と独自の美しさをあらわしている。

6       山亭

方丈庭園から山亭庭園(勢至堂の周辺)へ抜ける回遊ルートを使います。

山亭

霊元天皇の第十皇女浄林院宮吉子内親王の御宮殿を本地堂の客殿として宝暦九年に御下付移築されたものです。

明治時代に大改修し、平成10年には、内部改修されました。

なお、同吉子内親王の御墓は、勢至堂墓域、濡髪大明神前、千姫墓碑の東側にご奉安されております。

また、山亭庭園は、江戸末期から明治期に大改修され江戸末期の様式を色濃く残しております。

算定北側より西側に廻る形式が取られており、北西角には三尊石を配すると共に、古都京の町並みが一望できる名園であります。

如恩院

京都の街並みが見えます。知恩院は東の丘の上にあります。

7       千姫の墓

文京区・伝通院にもありますが、そちらは葬儀が営まれた場所であり、遺体(遺骨)が埋葬された本葬の地(中心となる墓所)です。

ここは分骨所です。

 

8       濡髪大明神

濡髪大明神(ぬれがみだいみょうじん)にお祀りされているのは、人間の「童子(子ども)」の姿に化けた白狐(白いキツネ)です。知恩院の守護神とされています。

9       御廟

大師様(法然上人)の廟所です。

元祖大師御遺訓

一枚起請文

もろこし我が朝にもろもろの智者達の沙汰し申さる

観念の念にもあらずまた学問をして念の心を悟りて申す

念佛にもあらずただ往生極楽のために南無阿弥陀佛と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申す外には別の子細候わず

ただし三心四修と申すことの候うは皆決定して南無阿弥陀佛にて往生するぞと思う内にこもり候うなり

この外に奥ふかき事を存ぜば二尊のあわれみにはずれ本願にもれ候うべし

念を信ぜん人はたとい一代の法をよくよく学すとも一丈不知の愚鈍の身になして入道の無智のともがらに同じうして智者のふるまいをせずしてただ一向に念佛すべし

證の為に両手印をもってす

浄土宗の安心起行この一紙に至極せり

源空が所存この外に全く別義を存ぜず

滅の邪義をふせんがために所存を記し畢んぬ

建暦二年正月廿三日 大師在御判

 

法然上人が亡くなる直前(建暦2年/1212年1月23日)に、浄土宗の教えの神髄を1枚の紙に書き残された『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』の現代語訳は以下です。

『一枚起請文』現代語訳

私がおすすめしている念仏は、唐(中国)や日本の知恵者たちが論じているような、深く高度な観想(心に仏を思い描く特別な修行)の念仏ではありません。

また、学問をして念仏の意味を悟りきった上で称えるようなものでもありません。

ただ「阿弥陀様のお救いを信じて南無阿弥陀仏と称えれば、間違いなく極楽浄土に生まれることができる」と信じて「南無阿弥陀仏」と口に称えること、これ以外には何も特別な秘密はありません。

ただ(お救いを信じる)「三心(さんじん)」や(実践を重視する)「四修(ししゅう)」といった教えについて解説されることがありますが、それらもすべて「南無阿弥陀仏と称えれば必ず往生できる」と深く信じる心の中に自ら治まる(備わる)ものなのです。

もし私が、阿弥陀様の誓い(本願)以上に深い教えを知っているなどと言ったならば、それは釈迦如来・阿弥陀如来の「大きな慈悲の心」からはずれ、阿弥陀様のお約束(本願)からも漏れてしまうことになります。

念仏を信じる人が、たとえ釈迦が生涯で説かれたすべての教え(八万の法蔵)を学んだ学術者であったとしても、自分自身の学識や誇りを一切捨てて、一文字も知らない愚かな男や女、あるいは出家したことのない無知な者(愚鈍の文盲)と同等になり切って、知者ぶった態度を少しも作らず、ただひたすら念仏を称えなさい。

我が教えの信証(正しい教えであるという証拠)として、ここに手形を捺します。

建暦二年正月二十三日

この一枚起請文が浄土宗の神髄を表していることが分かります。

家で何度も聞かされました。

10  勢至堂

現在の勢至堂は、享禄3年(1530) に建てられたもので、知恩院内で現存する最古の建物です。

知恩院発祥の地に建ち、慶長9年(1604) 頃に徳川家康によって拡張された中段に御影堂が建つまでは、法然上人像をお祀りする本堂でした。

建物は、桁行・梁間ともに七間の単層入母屋造本瓦葺で、 東面以外の三方に高欄付きの縁を備えます。

外観は、大きく面を取った角柱の上に舟木を置くだけの簡素な意匠で、 住宅風の落ち着いた雰囲気を感じさせます。

内部は、前方に奥行二間の外陣、 その奥中央三間を内陣として勢至菩薩坐像 (重要文化財)をお祀りし、 内陣の両脇に脇陣を設けています。

勢至堂は、 浄土宗本堂の発展過程を理解する上で貴重な建物で、その平面形式は現在の知恩院本堂 (御影堂) にも受け継がれています。

建立以来、約500年もの間、幾度となく修理を繰り返して維持されてきましたが、近年は、柱や小屋組の傾斜、 床組の腐朽、屋根瓦の破損など老朽化が進んでいました。

そのため、明治期の大修理以来およそ100年ぶりとなる半解体修理を実施しています。

11  マグナス・リン

大阪・関西万博 (令和7年10月13日閉幕)のアイルランドパビリオン前に設置されていた巨大なモニュメント 「MAGNUS RINN (マグナス・リン)」が、令和7年11月14日、 浄土宗総本山知恩院の男坂に移設されました。

「マグナス」とはラテン語で「偉大な」を意味し、「リン」はゲール語 (アイルランドの公用語)で「場所・地点」を意味します。

「リン」は日本語 「輪・円」に通じます。

このモニュメントの作者はアイルランドの造形作家、 Joseph Walsh (ジョセフ・ウォルシュ)」氏。

ウォルシュ氏はこの作品について次のようにお話しています。

「この作品のコンセプトは、私の多くの作品に通じる 『張力としての形』に関係しています。

私は一つの大きくて穏やかな動きを表現したかった。

円のようで円ではない。

形の中にねじれを加えることで、三次元性と動きをもたらしています。」

素材は3部から構成されています。

①表面は金箔

②下半分は青銅 (ブロンズ)

③上半分はオーク材

: 一枚一枚丁寧に貼り付けました。

人類が初めて加工した金属。 文明の象徴と位置づけます。

:オーク材とは、ブナ科コナラ属の落葉広葉樹。 自然の生命力を象徴。

「人と自然の循環」 「調和の象徴」 を表しています。

知恩院に移設される「ご縁」は辻井博行氏に依ります。 辻井氏は知恩院の方丈庭園の管理をお願いしている株式会社辻井造園の社長です。

会社は比叡山山麓坂本に伝わる穴太衆(あのうしゅう)の石組み技術を受け継いでいます。

大阪・関西万博ではアイルランド館のランドスケープ (景観) と植栽を担当されました。

万博開幕翌日、辻井氏がウォルシュ氏を知恩院に案内したところ、ウォルシュ氏は境内の情景に深い感銘を受けられ、万博閉幕後、 知恩院に移設されることを希望し、アイルランド政府に申し入れされました。

その希望を受け、 令和8年9月末まで知恩院にてお預かりすることとなりました。

これが万博の時のマグナス・リンです。

12  友禅苑

宮崎友禅の生誕300年を記念して昭和29年に改修整備された昭和の名園です。

中央の補陀落池(ふだらくいけ)には高村光雲(高村光太郎の父親)作の「補陀落(ふだらく)の観音像」が立ち、庭園のシンボルとなっています。

12.1  華頂庵(かちょうあん)

裏千家ゆかりの茶室、華頂庵(かちょうあん)です。

12.1  白寿庵

「白寿庵」は将軍家ゆかりの建物です。

12.2  友禅像

宮崎友禅(宮崎友禅斎)は、江戸時代中期(元禄年間)に京都で活躍した扇絵師・染色デザイナーです。

知恩院の門前に住み、独特の流麗な絵柄を描いた「友禅扇」をヒットさせました。その高いデザイン性が評判を呼び、和服(小袖)の模様図案(ひな形)を手掛けるようになると、男女や身分を問わず大流行しました。

枯山水です。

今回はたっぷりと知恩院を楽しみました。

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