鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、皇位継承と皇室領荘園の所有権をめぐって対立した皇室の2つの血統が、大覚寺統(だいかくじとう)と持明院統(じみょういんとう)です。
特に南北朝時代には、足利尊氏との対立を経て、後醍醐天皇は吉野へ逃れて「南朝(大覚寺統)」を開き、足利尊氏は京都で持明院統の光厳上皇らを擁立して「北朝(持明院統)」を立てました。
大覚寺統の拠点がここ嵯峨の大覚寺です。
大覚寺の入口はここです。


表門へ行く前には有栖川から分流した「御殿川(ごてんがわ)があり、境内を守る天然の掘(おほり)のような役割を果たしています。
石垣や参道に沿った水路風の見た目をしていますが、人工的に引かれた用水路ではなく、桂川へと注ぐ自然河川の一部です。
大覚寺(旧嵯峨御所)
嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の本山である。
当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院(のち仙洞御所)の一部で、天皇崩御の後の貞観十八年(八七六)に寺に改められ、大覚寺と名付けかられた。
その後一時荒廃したが、文永五年(一二六八)に後嵯峨上皇、続いて亀山法皇、後宇多法皇が入寺し、寺を復興するとともに大覚寺統を形成し、持明院統と皇位継承について争った。
元弘三年(一三三三)、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇によって建武新政が行われるが、足利尊氏と対立し、南北朝時代を迎える。
明徳三年(一三九二)当寺で南北両朝の講和が成立した。
宸殿(しんでん)は、後水尾天皇の中宮東福門院の旧殿を移築したもので、内部は、狩野山楽筆の「丹図」、「紅白梅図」などの豪華な襖絵で飾られている。
その外、御影堂、五大堂、霊明殿、安井堂、正寢殿、庫裏などの堂宇が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えるとともに、勅封の般若心経を奉安する皇室ゆかりの寺院である。
京都市
目次
1 表門

左が参拝口、右が大玄関(式台玄関)へ通じる石畳です。


参拝口の左手にはお花が生けてありました。
隣接する大沢池で咲く水生植物や、周囲の自然の姿は、大覚寺を総司所とする「いけばな嵯峨御流(さがごりゅう)」の思想的なルーツとなりました。
池に浮かぶ「菊ヶ島」に咲く野菊を嵯峨天皇が器に生けたことが、日本のいけばなの始まりとされています。
嵯峨御流は大覚寺で、いけばな教室をやっているようです。
2 参拝口
3 大玄関
参拝口の右手にあります。

大玄関(式台玄関)
江戸時代の初め、御所より移築されたもので旧嵯峨御所・真言宗大本山大覚寺の玄関です。
大覚寺は、もともと平安時代の始めに嵯峨天皇が造営した離宮嵯峨院に起源涼し、その後貞観十八年(八七六年) 寺に改められ、初代の門跡に嵯峨天皇の御孫 恒寂法親王が就かれました。
日本でも最も古い門跡寺院です。
心経信仰の霊場 芸術文化の殿堂 嵯峨御流華道の根本道場です。
この式台玄関の障壁画は狩野永徳によって描かれた「松に山鳥図」です。
文化財保護の立場から国宝の文化財や重要文化財の仏像、障壁画、装飾画等は収蔵庫に収められております。
メモ
門跡寺院(もんぜきじいん)」とは、皇族や公家(摂関家など)が出家して住職(門主)を務めた、非常に格式の高い寺院。


後宇多法皇(1267 – 1324)が使用した輿です。
4 宸殿(しんでん)
宸殿(重要文化用)
江戸時代の初の 延宝年間(八)に後水尾天皇皇后東福門院和子(二代目将軍秀忠の娘)が使用してた女御御所の宸殿を賜ったものです
入口の格子戸は櫛といいその留金部分には蝉の装飾があります
また部屋は五つに分かれ正面牡丹の間は格式が高く天井は折上小組格天井なっております
襖絵は狩野山楽によって描かれた牡丹 紅白梅 松鶴等があり 桃山美術の代表的な作品です
前面の庭には一面に白川砂が敷かれ大海を表しており正面の[右近の橘」「左近の梅」が旧御所の名残りをとどめています


5 石舞台


宸殿(しんでん)前庭、白砂が広がる空間に配された石舞台は、主に儀式や法要の際の「舞楽(ぶがく)や雅楽(ががく)の奉納」に使われてきた舞台です。
6 勅使門

勅使のご来山や門跡猊下(もんぜきげいか)出仕の晴れの法会など特別な時のみ開かれました。
7 正寝殿(しょうしんでん)

「門跡のプライベートな居住空間」兼「対面所(接客や儀式の場)」でした。
8 勅封心経殿

平成三十年 勅封般若心経一千二百年戊戌開封法会
殿内には、大覚寺ご始祖である嵯峨天皇をはじめ、後光厳、 後花園、後奈良正親町、光格天皇が書写された勅封の般若心経が納められ、薬師如来像が奉何されています。
来たる平成三十年(二〇一八)は、大覚寺並びに嵯峨御流のご始祖である嵯峨天皇が弘法大師のお勧めにより、般若心経を書写された弘仁九年(八一八)から丁度一二〇〇年目の勝縁に当たります。
この般若心経は霊経と崇められ、書写されたのが戊戌の年であったことから、干支が一巡して戊戌が巡り来る六十年に一度しか開封されない勅封心経として厳重に秘蔵されてきました。
平成三十年が戊戌の巡りとなり、物般若心経一千二百年戊戌開封法会として、広く皆さまに開封申し上げ世界の平安をご祈祷申し上げることになっております。
旧嵯峨御所大本山大覚寺
心経殿(勅封心経殿)
大正十四年(一九二五年)の建立で法隆寺の 夢殿を模した八角形で高床式のコンクリート 造りの建物です
殿内には嵯峨天皇をはじめ後光厳、後花園、後奈良、正親町(おおぎまち)光格天皇 の般若心経の御写経が納められ薬師如来立像が奉伺されています
この勅封写経は 天皇の命により封印をした経典として 奉られ六十年に一度開封されます
この建物は平成十年(一九九八年)に文化庁から「登録有形文化財」に指定されました
9 心経前殿
勅封心経殿からの紐が殿の中に繋がっています。これは「五色紐(ごしきひも)」や「五色線」と呼ばれる仏教の聖なる紐です。
この紐は、心経前殿(御影堂)の内陣(お堂の奥)へと引き込まれ、参拝者が直接触れることができる法具である「なで五鈷杵(ごこしょ)」や「摩尼車(まにぐるま)」、そしてその奥のご本尊(尊像)へと繋がっています。
参拝者が心経前殿で紐の先にある「なで五鈷杵」に触れたり「摩尼車」を回したりすると、その五色紐を伝って、勅封心経殿の中にいる仏様や嵯峨天皇の祈りと自分が直接繋がったこと(結縁・けちえん)になります。これにより、お経を読んだり写経をしたりしたのと同じような深い功徳や、厄除けのご利益を授かることができるとされています。

10 大沢池
「大沢池(おおさわのいけ)」は、日本最古の人工の庭池(庭園池)であり、平安京の誕生とほぼ同時期から続く1200年以上の歴史を持っています。
都の喧騒を離れた嵯峨野の地をこよなく愛した嵯峨天皇は、ここに自身の離宮「嵯峨院」を築きました。
その庭園の中心として、中国の広大な湖である「洞庭湖(どうていこ)」を模して造らせたのがこの大沢池です。

池舞台です。
神仏への祈りを捧げる宗教的な「法要・儀式」、および平安貴族の風雅を再現する「芸能の奉納・演奏」に使用されます。
11 五大堂


五大堂
『大覚寺の古文書』の中に「嵯峨天皇の勅願により嵯峨離宮に嵯峨五台山明王院五大堂を建立し、弘法大師 が入唐した折 大唐より伝わった五大明王(重要文化財につき宝物殿に安置)を奉祀し弘仁二年 (八二年)三月十一日に利民安世、五大明王秘法と修し給う、たちまち、五風十雨(ごふうじゅうう)節序にしたがい百穀豊饒(ひゃっこくほうじょう)し、万民其澤(ばんみんそのめぐみ)に潤う」と、その由来が伝えられています。
現在の建物は、江戸時代の天明年間(一七八一~八九年)に 再建されたもので、大覚寺の本堂です。
本来は境内中央 勅使門の正面(現在の石舞台)の位置にありましたが、大正六年 (一九二五年) 大正天皇即位式の饗応殿が下賜(かし)され御影堂 (心前殿)として建築されたため、現在地に移築されました。
また、現在お祀りされている本尊は大覚寺創建二〇〇年を 記念して昭和五十年(一九七五年)に京都の大仏師松久朋琳 と人間国宝松久宗琳の手で新しく造像されたものです。
近畿三十六不動尊第十三番の霊場として多くの人々に親しまれております。
大覚寺へは野宮神社から歩いて行きました。
竹林の小径を抜けてきましたが30分位かかりました。










