鉄道博物館への鉄道アクセスは以下です。
大宮駅で「埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)」に乗り換えます。
ニューシャトルで1駅(乗車時間 約1分)の「鉄道博物館(大成)駅」で下車します。
鉄道博物館(大成)駅の改札を出て、プロムナード(屋根付き連絡通路)を通って徒歩約1分で到着します。

鉄道博物館(大成)駅
駅構内にあるニューシャトルの部品展示。
ナックルとホイールハブ/ディファレンシャルの展示
埼玉新都市交通 ニューシャトルは、鉄の車輪ではなくバスやトラックの様にゴムのタイヤで走行しています。
開業当初は、左のタイヤの様にホイールとタイヤの間にウレタンを充填し、 ノーパンクタイヤとして用いられていました。
現在は、右のタイヤのように乗り心地向上の為、タイヤとホイールの間に窒素ガスを充填して、急なパンク時やエア抜けをおこした場合でも車体が必要以上傾かない様、中子(なかご)とよばれる鉄のプレートが、 タイヤとホイールの間に装着されています。

鉄道博物館(大成)駅の改札を出て、プロムナード(屋根付き連絡通路)を歩きます。
D51形蒸気機関車 前頭部
(実物)
1936年(昭11) から、 1115両造られた旧国鉄の代表的な貨物用蒸気機関車です。
すぐれた性能には定評があり、 愛称 「デゴイチ」の名でも呼ばれ、 全国各地で使われました。
旧国鉄の営業路線から蒸気機関車が最後に姿を消した1975年(昭50) まで活躍しました。
このD51426号機 (先頭から約3mの部分) は、 北海道・東北・中国地方で働き、 1972年(昭47) に廃車されました。
主要諸元 : 全長 19,730mm 全幅 2,800mm 全高 3,980mm 運転整備重量 125.1t
走行距離 2,030,683km
製造年 1940年(昭15)

エントランスです。
https://www.railway-museum.jp/map/


目次
1 EF58 61号機(ロイヤルエンジン)

EF58 61号機
お召専用機として製造された“ロイヤルエンジン”
1953(昭和28)年、60号機とともに初めからお召列車専用機として指定して車両メーカーに発注、新製されました。
車体正面だけでなく側面まで取り付けられたステンレス製の飾り帯や国旗掲揚装置、 足回り各部の磨き出しなどの専用装備を当初から備え、 172両が製造された同機の中でも特別な車両で“ロイヤルエンジン”と呼ばれました。
同年10月に東京~名古屋間でお召列車をけん引して以来、2001年までの間、 90回以上お召列車の先頭に立ちました。 そのほかにも臨時列車やイベント列車をけん引し、日本の電気機関車を代表する存在となりました。
2 ランチトレイン(455系急行型交直流電車)

3 腕木式信号機
腕木式信号機
腕木の位置と電球 (油灯) の光を併用して列車の進行や停止を指示する信号機です。
明治時代より使用されていましたが、 色灯式の信号機に置き換えられ、現在ではローカル線に残るのみとなっています。
この信号機は、 JR花輪線の荒屋新町駅(岩手県二戸郡安代町)の下り本線 (上) 上り1番線(下)の場内信号機として設置されていたもので、 信号装置の自動化に伴い、 1999年(平成11) 6月に役目を終えました。
青森県むつ市でも同じものを見ました。
旧会津藩藩士が明治維新後に移り住んだ極寒の地「斗南」(現在のむつ市)と言うところ
4 キッズプラザ

小さいお子さんの遊び場です。
5 ミニ運転列車
休日は殆ど取れない乗車券も平日は簡単に取れました。
乗っているより、見ていた方が楽しい。
6 新橋-品川を走った機関車


築堤の構造 (想定図)
築石には、 周辺の高輪海岸や台場の石などが使用され、 真鶴や御殿山から採掘された石もあった。
海側の石垣はおよそ30度の勾配で築かれている。


「海の上を走った鉄道」 高輪築堤(たかなわちくてい)
高輪築堤は1872(明治5)年の新橋~横浜間の鉄道開業に際して、現在の田町駅北部 (芝浦周辺)から旧品川駅にかけての約2.7kmの区間の海上に築かれた築堤で、海の上を走る鉄道として開業当時の鉄道名所となり、 新橋停車場とともに文明開化の象徴となった。
大正時代の東京湾の埋立事業により姿を消したが、 品川駅周辺のまちづくりにともなう調査によりその遺構が検出され、一部については2021 (令和3)年9月に「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」として国史跡に指定された。
高輪海岸沿いには旧薩摩藩邸や兵部省(現在の陸軍省・海軍省の前身)の用地があり、兵部省が軍事上の理由から鉄道用地としての使用に反対したため、鉄道建設側は海岸の浅瀬に築堤を築いて線路を通す方法を採用しました。


高輪築堤の記事はこちらにも
7 弁慶号







北海道開拓のためにアメリカから来た蒸気機関車
明治初期、北海道では明治政府が設置した開拓使によって開発が進められており、 1880年11月28日北海道初の鉄道となる幌内鉄道が開業しました。
弁慶号は炭鉱のある幌内から港のあった小樽の手宮に石炭を運び、 さらには旅客や貨物を札幌へと運ぶ役目を担うため、 アメリカから輸入された最初の2両のうちの1両です。
8 開拓使号

開拓使号
アメリカンスタイルの豪華客車
明治初期の北海道開拓では、アメリカから多くの技術者を雇い入れ、彼らの指導を得ながら事業を進めていきました。
このため、 幌内鉄道開業にあたっては、鉄道車両や設備・資材もアメリカから輸入しました。
このうち最上等の客車 開拓使号は、デッキと中央通路を備えています。
また当時最新の自動連結器や、 自動空気ブレーキを備えていました。
9 9850蒸気機関車
9850
急な坂道を走った蒸気機関車
東海道本線山北~沼津間 (今の御殿場線) には、 25‰※という急な坂が連続し、一度に引ける車両数に限りがありました。
そこで、パワーがありながら曲線もスムーズに走ることができるマレー式機関車が使用されました。 1924年の廃車後は、 展示用に複雑な構造が分かるように一部が切開されています。
※25‰ (1000mにつき25m登る傾斜を示す) 25m
9.1 9856号機
現存する日本唯一のマレー式機関車で、左半分が内部構造を見せるように切断された状態で展示されています。



10 ハニフ1 (デ963)
ハニフ1 (デ963)
大都市東京に登場した国鉄電車のルーツ
1904年、 甲武鉄道が飯田町~中野間において、路面電車以外では日本初となる電車運転を始めました。
路面電車とは異なり、 専用の軌道を持つことで高速で走れるようになりました。
また、 複数の車両を連結し、 先頭車の運転台から他の車両も操縦できるシステムも備えていました。
その後1906年に甲武鉄道が国有化され、 この車両は国鉄初の電車となりました。

11 善光号
善光号
建設工事に使われた小さな蒸気機関車
1881年に創立した日本鉄道の上野~熊谷間建設用に輸入された、私鉄最初の機関車です。
動輪ひとつにかかる重さが軽く建設工事中の不完全な線路を走るのに適していたため、 線路の建設資材や土砂の輸送に活躍した、 車両構造が珍しい機関車です。

12 大正時代の客車

13 人車鉄道

人車鉄道
人車鉄道 (軌道) とは、鉄製のレールの上に載せた客車や貨車 (トロッコ) を人の力で押すもので、 1895 (明治28) 年に開業した「豆相 (ずそう) 人車鉄道」が最初です。
小さな輸送力しかありませんが、おもに東日本に20社ほどあり、 貨物専用のほか遊覧目的のものもありました。
「松山人車軌道」 は1922 (大正11) 年に東北本線松山町駅前から松山町中心部まで約2.5kmを開業しましたが、1930(昭和5)年には自動車交通の発達による輸送量の減少により廃止されました。
人車 (実物)
人車鉄道は、人の力で押して走った鉄道です。
明治の終りごろから大正にかけて、 関東・東北地方で多く使われました。
この車は大正から昭和にかけて、 宮城県松山町で使われていたものです。
人車鉄道は、1895年(明治28) に豆相人車鉄道 (小田原~熱海間)として開業した。
関東 東北地方に分布し、 大正時代がその全盛期だったが、大部分は規模の小さいものであった。
やがて電車や気動車、あるいはバスの進出などにより、 多くは昭和初年までに姿を消した。
この人車は松山町駅 (東北本線) から、 町の中心部まで約2.5kmを走った松山人車鉄道の車両。 車体が残っていたものを復元した。
1922年(大正11) 11月1日 開業
1928年(昭和3) 3月31日 旅客部門廃止 (松山町調べ)
定員12名 (座席8名)
寄贈 NHK東北本部 (仙台)
宮城県 松本善右衛門氏

豆相 (ずそう) 人車鉄道についてはいかにも記事があります。
14 オハ31
「オハ」は、「自重が32.5t〜37.5t未満(オ)の、動力を持たない普通客車(ハ)」という意味になります。
オハ31
丈夫な鋼製車体の客車、ストーブ列車としても活躍
鉄道開業から1920年代まで、 国鉄の旅客車は木製でした。
しかし機関車の性能が向上し、列車が速くなると、 事故の際の衝撃が大きくなり、木製車体の安全性が問題となりました。
そこで、1927年に最初の鋼製客車として製造されました。
この車両の晩年は津軽鉄道に譲渡され、冬は 「ストーブ列車」として活躍しました。


15 クモハ40
運転台付き(ク)の、モーターで動く(モ)、普通車(ハ)」という意味になります。
- ク(制御車)
由来: 運転台がある車両(クドゥシャー/クドウシャ → 駆動車の「ク」)
運転士が操縦するための運転台(運転室)が付いていることを意味します。
- モ(電動車)
由来: モーターで走る車両(モーターの「モ」)
車両の下に走行用モーター(主電動機)を搭載していることを意味します。
- ハ(普通車)
由来: イ・ロ・ハ の「ハ」(3番目の等級)
旧国鉄時代の等級制度(1等車=イ、2等車=ロ、3等車=ハ)に由来します。現在は「ロ=グリーン車」「ハ=普通車(一般席)」を指すため、普通車であることを意味します。


クモハ40
さらに長い車体でより大量の輸送を実現した電車
年々増加する大都市の通勤・通学利用者に対応するため、国鉄のモーター付
きの車では初めて車体の長さを20mと長くして定員を増やしました。
この規格は現在においても継承されています。
また、 スムーズな乗り降りのため、扉の幅を広くして、駅での乗り降りをスムーズにしました。
16 キハ41300
「エンジンで走る(キ)、普通車(ハ)」という意味になります。

キハ41300
フットワークにすぐれ、非電化路線で活躍した気動車
客車にエンジンを載せて走るのが気動車です。
当初はエンジンが非力だったため、車体を軽くしたり、 車軸の摩擦が少ないコロ軸受を使ったりしました。
また、車体の両端に運転室があるため、終点で機関車を付けかえる必要もなく、簡単に折り返しができました。
初期の気動車として全国各地の電化されていない区間を走りました。
17 ED75
E(Electric):電気機関車であることを意味します。
D(アルファベットの4番目):モーターで動く車軸(動軸)が 4本 あることを意味します。

ED75
小柄でも強力、 寒さに強いまっ赤な電気機関車
北海道、東北地方や北九州地区の交流電化区間で活躍した機関車です。
車体は短く動輪も4軸ですが、 直流用の動輪6軸の機関車と同等のパワーを発揮して、貨物列車や寝台特急などいろいろな列車をけん引しました。
展示している700番代の機関車は寒冷地用・塩害対策を施した車両で、 豪雪や潮風の害を受けにくくなっています。
18 EF66
EFは:電気機関車
F(アルファベットの6番目):モーターで動く車軸(動軸)が 6本 あることを意味します。


EF66
高速大量輸送に適したハイパワー電気機関車
1960年代、増え続けるトラックによる貨物輸送に対抗するため、大量の貨物を高速で運べる強力な機関車が必要となりました。
EF66は、当時の東海道本線の電車特急こだまと同じくらいの速さ、100km/hで1000tの貨物を運ぶため誕生し、コンテナ列車や鮮魚列車をけん引しました。
当時の狭軌 (レール幅1067mm) 鉄道では世界最大だった3900kW/hのパワーを誇ります。
19 コキ50000
「25トン以上の荷物を積載できる(コ)、コンテナ車(キ)」という意味になります。


コキ50000
今につながる貨物輸送、 コンテナを載せた貨車
急成長する特急コンテナ列車用として、 1971年から1976年にかけて車掌室のついているコキフ50000と合わせて約3600両が製造されました。
従来、貨物列車の最高速度は65~75km/hが標準となっていたところを、95km/hまで向上し、 コンテナ貨物輸送の速達化を実現させ、全国の路線で活躍しました。
20 レムフ10000
「14t〜16t未満の積載能力を持つ(ム)、車掌室・ブレーキ設備付き(フ)の冷蔵車(レ)」という意味になります。
レムフ10000
時間が勝負の高速貨車、 鮮魚を運んだ冷蔵車
東海道・山陽本線の鮮魚専用特急貨物列車用に開発された冷蔵車で、最高速度100km/h運転を実現した貨車の一つです。
振動を減らすため貨車では初めて「空気バネ台車」を採用、さらに軸箱を筒形ゴムで包み、すり合せ部をなくしました。
また、 高速運転に対応するため、 電気回路でブレーキを素早く伝達する 「応荷重式電磁自動空気ブレーキ」 を採用しています。

鮮魚輸送と築地市場
1873 (明治6)年に開始された鮮魚輸送は、明治末期から冷蔵車も登場し、スピードで他に勝っていた鉄道による鮮魚輸送の需要は高まっていきました。
貨物列車の中でも高速化の筆頭になり、 様々な鮮魚用貨車が開発され、1968(昭和43)年には100km/hで走行可能なレサ10000形、 レムフ10000形 (鉄道博物館車両ステーションに展示中)が登場しました。
低温で輸送することが求められるため、 車内にはドライアイスを置く台があり、 庫内の温度上昇を防ぐための白い塗装は目を引きました。
また、先日その役割を終えた築地市場 (東京都中央卸売市場)は、かつて汐留駅から線路が伸びており、 「東京市場駅」でもありました。
場内に鮮魚列車を入れ、 魚をおろしていました。
建物全体がカーブした独特の形状は、長い貨物列車を長い編成のまま場内に入れ、 素
早く魚をおろすために考え出されたものでした。
現在では保冷剤によって低温を保つ冷蔵コンテナと、ディーゼルエンジンをコンテナにつけ、庫内を冷却する冷凍コンテナが、 魚や肉など生鮮品の輸送に利用されています。
21 222型新幹線
22 クモハ455
運転台付き(ク)の、モーターで動く(モ)、普通車(ハ)」という意味。


クモハ455
庶民の味方、 急行形電車
1960年代以降、地方を中心に広まった交流電化区間とそれまでの直流電化区間を直通運転できる急行形電車として登場しました。
急行は 「特別な急行列車」 である特急と比べて、 料金が安い一方で、停車駅の数が多く、 特急がとまらない駅をカバーする役割がありました。
23 新幹線
23.1 E1系E153-104号車

23.2 400系

400系
元祖、ミニ新幹線
1992年、山形新幹線の開業に合わせ登場した400系は、 新幹線と標準軌に線路を改築した在来線との間を直通運転する、初の 「新在直通車両」 です。
新幹線の線路幅1435mmの台車に、在来線を走行可能な規格の車体を組み合わせ、電圧の異なる両区間を直通できるような機器も搭載しています。
銀色の塗装も新幹線の新時代を予感させる斬新なものでした。
館展示車両では初のグリーン車です。


24 E233系シミュレータ
在来線のシミュレータです。



25 鉄道のメンテナンス

架線の直径を測定しよう
電車に電気を送る架線は、 パンタグラフと接触を繰り返しているので、しだいに減っていきます。
センサーで直径を測定する機械もありますが、 架線や架線を吊っている部品の状態を確認するために、 技術者が直接架線の直径を計測器で測定することもあります。

打音検査でボルトのゆるみを発見しよう
ボルトがしっかり締まっているかを、ハンマーでたたいてその音を聞き、確認するのが打音検査です。
しっかり締まっていれば高く、 かたい音、 締め方が不十分だと、 低く、にごった音がします。
ハンマーでボルトをかるくたたき、音を聞いてみましょう。
検査が終わったらハンマーをもとの位置に戻してください。
車輪の内面距離を測定しよう
車輪を新品に交換したり、 削る場合は、 車軸からはずして作業します。
作業が終了したあとは、 車軸に確実に車輪が取り付いているか、内側の間隔が正常かを確認します。



26 C51
「C」は動軸が3本ある蒸気機関車であることを示しています。(※例えば「D51」のDは動軸が4本あります)51はテンダー式の客車用機関車を表します。
テンダー式は、蒸気機関車本体の後ろに、燃料(石炭)と水を載せるための専用車両(テンダー/炭水車)を連結して走る方式のことです。



C51
高速旅客用蒸気機関車の先駆け
この機関車の開発当時は鉄道輸送量の伸びがめざましく、 機関車を大型化して輸送力を増強した時代でした。
より速く走ることができるよう動輪の直径をそれまでの1600mmから1750mmに大きくし、さらにボイラーも大きくして出力を上げました。
東京~神戸間の特急 「燕」 の初代けん引機として、性能が高く評価された車両です。
27 新幹線の歴史

新幹線前史 1
20世紀初頭の広軌改築論争
~二転三転、 そして挫折~
日本の鉄道は、 1872(明治5)年の開業時に1067mmの軌間 (狭軌) が採用されました。
当時は国力も乏しく、 軌間の大小が速度や車両の大きさにどのように関連するかの知識も不十分だったため、 建設費の安い狭軌が採用されたといわれています。
その後、 明治20年代には国防上の理由により、 軍部から鉄道の広軌 (標準軌) 化が求められます(のちに狭軌による国有論に転換)。
そして、 明治後期になり資本主義が発達してくると、 輸送力や速力の面で劣る狭軌の鉄道では、輸送需要の増大に対応することが難しくなり、軌間を広軌 (標準軌: 1435mm) に改めることで鉄道の輸送力を大幅に向上させようとの動きが現れました。
日露戦争が終わり1906(明治39)年に公布された鉄道国有法により全国の主要路線が国有化されると、 幹線鉄道の輸送力の抜本的な改善策として、 広軌への改築の動きが鉄道院内部から現れてきました。
それは、日露戦争後の重化学工業の発展にともなう輸送量の増大への対応策でもあったのです。
また海外進出をめざす当時の日本にとって、 国内の鉄道を大陸と同じ広軌に改めることは重要と考えられました。
当時も鉄道の存在は非常に大きく、 そのあり方をめぐってしばしば政治問題へと発展しました。
広軌改築も政争の具とされ、 非政友会系の後藤新平を中心とした改主建従派(幹線の改良=広軌への改良を主体とする) と、 政友会の原敬を中心とした建主改従派(狭軌のまま全国への鉄道網建設を主体とする)が主導権争いを繰り返し、内閣が代わるたびに方針が二転三転していきました。
何度も立ち消えになった広軌改築計画も、 後藤新平が鉄道院総裁をつとめていた1917(大正6)年に、 横浜鉄道(鉄道院が借入れ中) で広軌改築試験が行われるなど、 その実現へあと一歩まで迫ります。
けれども翌年に発生した米騒動の責任を取って寺内正毅内閣が総辞職し、政友会の原敬内閣が成立すると広軌改築は否定され、 日本の鉄道は狭軌のままでいかに広軌並みの輸送力をつけるかが課題となりました。
新幹線前史 2
戦前の広軌新幹線計画
~幻の弾丸列車~
広軌改築計画は政党の利害によって中止され、 狭軌のまま輸送力を増強する方策がとられてきました。
しかし、 1937(昭和12)年に日中戦争が勃発すると、 軍事輸送を中心に国内とアジア大陸間の旅客 貨物輸送量が急激に増加し、 近いうちに東海道本線の輸送力が行き詰まることが予想されました。
そこで、これらの行き詰まりをあらかじめ打開するために、まったく新しい構想のもとに、 輸送力を増強するための線路の増設構想が生まれてきました。
この計画は、 1938(昭和13)年12月に鉄道省企画委員会がまず原案をまとめ、 翌年7月に鉄道大臣の諮問機関として鉄道幹線調査委員会が設置されて具体化しました。
この委員会の結論は、 東京~下関間に広軌 (1435mm) による複線の別線を建設し、同区間を12時間以内に結ぶというものでした。
そして鉄道会議の議決をへて、1940(昭和15)年3月に予算5億5,610万円、 15ヶ年継続事業として帝国議会で承認され、ついに建設へ向けて動き出したのです。
一般には “弾丸列車" と呼ばれた広軌新幹線計画の使命は、 国内とアジア大陸との間の交通政策の一環として、 一貫輸送体制の実現を第一の目的にしていました。
そこには国内の総力戦体制の強化をめざす軍部の強い意向があり、 鉄道関係者はこうした当時の国情を取り込みながら、これまで何度も挫折してきた広軌改築を一気に実現させたのでした。
こうして日の目をみた新幹線計画は、予算成立後ただちに建設基準を定め、 路線選定 用地買収を開始し、 1941(昭和16)年に着工されました。
しかし戦局の激化により資材 要員を確保できず、 1943(昭和18)年度で工事は中止となりました。
このように、 戦前の新幹線計画は着工までこぎつけながら、 戦争により中止されるという結果に終わりました。
しかしながら、この時に検討された車両や路線の規格・速度・軌間の多くは、 東海道新幹線建設に引き継がれ、 また買収された用地や施工されたトンネルもそのまま利用されています。
このように広軌新幹線計画が十分に検討・準備されていたからこそ、 東海道新幹線は5年半というきわめて短期間のうちに建設することができたのです。
言い換えれば “弾丸列車” の遺産が、戦後の新幹線建設に継承され、 活かされていったのです。
東海道新幹線の建設と開業1
東海道本線の行き詰まりー打開策は広軌別線―
太平洋戦争の終結後、 国鉄は老朽化した設備を酷使しながら復興期の輸送を支えました。
やがて朝鮮戦争を契機として経済再建が軌道に乗り、 旅客・貨物の輸送量が急速に増加しはじめます。
なかでも東海道ベルト地帯を結ぶ東海道本線は、 毎年6%のペースで輸送量が増え続け、 1956(昭和31)年の段階ですでに輸送力が飽和状態に達しており、 今後輸送力増強を行わなければ、近い将来に限界に達することが明らかになってきました。
そこで、 国鉄内部に東海道線増強調査会が設けられ、どのような形で線路増設を行って、 輸送力を強化するか検討が行われました。
この時、 狭軌のまま現在線に併設して複々線とする案(狭軌併設)、別ルートで複線を増設する案(狭軌別線)など、 様々な案が検討されましたが、 当時の十河信二国鉄総裁と島秀雄技師長は、 これまでの鉄道技術を集大成して、 理想的な鉄道システムを構築し、 将来にわたる発展可能性を持たせるためには、まったく新しい鉄道を建設することが必要である、との考えに立って広軌(標準軌) 別線による新線を建設し、 電車方式による高速列車を走らせて、 飛躍的な輸送力の増強をはかろうとしました。
しかし、当時の国鉄内部には狭軌による線増で、 現在線と一体的に運行しようとの意見が強く、 さらに鉄道は自動車や航空機に取って代わられ、 輸送の主役の座から転落するとする鉄道斜陽論を唱える識者も多く、 内外から反対の声が上がりました。
けれども、 1957(昭和32)年5月に鉄道技術研究所が創立50周年を記念して開催した講演会で、 東京~大阪間を3時間で結ぶことが可能であることを発表して、 大きなセンセーションを起こすなど、粘り強く各方面への説得を続けました。
そして、 運輸省内に設けられた日本国有鉄道幹線調査会が、1958(昭和33)年7月に、 東海道に広軌別線による新規路線の建設をあらゆる施策に先行して強力に推進するべきとの答申を行いました。
これにもとづき同年12月に交通関係閣僚協議会が東海道新幹線の早期着工を決議し、 閣議承認がえられました。
翌1959(昭和34)年3月に国会で建設予算が承認され、 4月には運輸大臣によって建設工事が認可され、 4月20日には新丹那トンネル熱海口で東海道新幹線の起工式が行われました。
こうして、多くの反対にもかかわらず、 将来の鉄道のあり方を見越した十河総裁や島技師長の強いリーダーシップにより、 東海道新幹線の建設は決定し、 ついに着工にいたりました。
明治中期以来何度も挫折を繰り返してきた広軌鉄道建設の夢は、ここに実現へ向けて第一歩を踏み出したのです。
東海道新幹線の建設と開業2
“夢の超特急” 走る!
こうして新幹線建設に向けた体制が急速に整えられ、建設規程の制定 用地買収 車両や各種施設のための技術開発・試験が急ピッチで実施されていきました。
路線計画は、 戦前の弾丸列車計画を引き継いでルートが設定され、東京側の起点は東京駅八重洲口、 大阪側は将来の延伸を考慮して淀川北岸の新大阪とされました。
戦前には全線の約20%の用地を買収しており、 すでに完成していた日本坂トンネル、 途中まで建設されていた新丹那トンネルとあわせ、 弾丸列車の遺産が新幹線建設にとって大きな助けとなりました。
また軌間は1435mm、 運転方式は交流電化方式による全線電車運転、 最高速度は210km/h、 全線立体交差の路線は高速運転に適した曲線・勾配とし、 ATC (自動列車制御装置)、CTC (列車集中制御装置)等が採用されました。
このように路線計画や建設基準は、 戦前の弾丸列車計画の際に検討されたデータの多くが活用されました。
それに加えて、技術的には戦後すぐから継続して研究していた台車振動の研究や、繰り返し行った高速度試験の成果など、 長年にわたり研究 試験を重ね、 在来線で実用化して信頼性をもったものばかりで、こうした在来技術の積み重ねが、 世界初の電車による200km/h超での営業運転を実現させたのです。
ところで、 新幹線建設工事は5年にわたる長期プロジェクトで、 建設資金の安定的な確保に不安がありました。
そこで国連の専門機関のひとつで、発展途上国や戦争で疲弊した国の復興を助けるために、低利の資金を融資する国際復興開発銀行(世界銀行)に借款を申し込み、
約8,000万ドル (288億円)の借款契約を結びました。
世界銀行の借款を受けるには政府による完成保証が必要であり、 借款の成立は資金面での強力な裏づけをえることになりました。
しかし、 当初は1,972億円とされた建設費は、物価上昇や路線変更、 用地買収価格の膨張などにより不足をきたし、 内外から厳しい批判を浴びることになりました。
最終的には3,800億円に達することが明らかになり、 1963(昭和38)年にその責任を取る形で十河総裁・島技師長 大石新幹線総局長らは国鉄を去りました。
こうして紆余曲折をへながらも工事は続けられ、 東京オリンピック開催を目前にした1964(昭和39)年10月1日に東京~新大阪間は開業し、ついに “夢の超特急” は走り出したのです。
新幹線は大量の旅客を、 高速で、なおかつ安全に輸送するという鉄道の特性を十二分に発揮し、その結果、 東京と大阪および沿線各都市間の時間距離は大幅に短縮され、 沿線の開発・ 発展を促し、ひいては日本経済の高度成長を支える大動脈の役割を果たしました。
東海道新幹線は戦後の日本人が生み出した技術開発物のうちの最高傑作とも評され、高度経済成長期を象徴する存在となったのです。


十河 信二(そごうしんじ) 1884 (明治17)年~1981(昭和56) 年
日本国有鉄道総裁として新幹線計画を主導し 「新幹線の父」とも評される十河信二は、東京帝国大学在学中に鉄道院総裁・ 後藤新平の影響を受け、 1909(明治42) 年、鉄道院に入り会計・経理畑を歩んだ。
1930(昭和5)年に中国東北部へ渡り、 南満州鉄道理事などを歴任、帰国後は帝国鉄道協会理事、 愛媛県西条市長、 鉄道弘済会会長などを務めた。
1955(昭和30)年に71歳で第四代国鉄総裁に就任。 限界に近づいた東海道線の輸送力増強のために島 秀雄を技師長に迎え、 標準軌 (線路幅 1435mm) の新線に高速列車を運行する新幹線計画を提唱した。
技術面を島らに任せる一方、 強力なリーダーシップで国鉄内外の根強い反対論を説得し、1959(昭和34)年4月に東海道新幹線建設工事の認可・着工にこぎつけた。
また、 国際復興開発銀行(世界銀行) と借款を結び資金面の強力な後押しを得た。
1963(昭和38)年に、工事費超過などの責任を取る形で二期目の任期満了に伴い国鉄総裁を退任、 新幹線開業日を国鉄総裁として迎えることは叶わなかった。
十河の退任を受け、島らも国鉄を去り、 1964(昭和39)年10月1日の東海道新幹線出発式には十河や島が姿を見せることはなかった。
十河は新幹線計画以外にも、 在来線輸送の増強や研究・教育部門の拡充など、さまざまな面で国鉄の近代化を推し進めた。
東京駅の新幹線開業10周年記念碑には十河のレリーフが飾られ、 その偉業を称えている。
島 秀雄 1901 (明治34) 年〜1998(平成10)年
東海道新幹線建設を主導し 「新幹線をつくった男」とも評される島秀雄は、 1925(大正14)年、東京帝国大学卒業後、 鉄道省 (のちの国鉄)に入り、蒸気機関車のC53形・D51形などの設計を担当し、蒸気機関車の標準化設計を確立させた。
1939(昭和14)年頃から、 父親である島 安次郎が委員長を務める、 広軌新幹線計画 (いわゆる弾丸列車計画) の車両計画にも携わっていた。
戦時中から戦後の時期にも、 その後の新幹線につながる電車技術の研究を進め、 1950(昭和25) 年に運行を開始した初の長距離用電車、 80系電車 (湘南電車) を実現させた。
その後、一時国鉄を離れたが、 国鉄総裁に就任した十河信二の強い要請で 1955(昭和30)年に技師長 (国鉄技術部門のトップ)として復職。
新幹線の技術開発責任者として、 車両だけでなく軌道、 信号、 電力、 運転管理等の技術者たちを取りまとめ、まったく新しい鉄道である新幹線を、ひとつの大きなシステムとして作り上げた。
1963(昭和38)年に国鉄を退職後、 1969(昭和44)年に宇宙開発事業団 (現・宇宙航空研究開発機構 〈JAXA> ) 理事長に就任、日本の宇宙開発にも貢献した。
1971(昭和46)年に勲一等瑞宝章を受章、 1994(平成6)年には文化勲章を受章している。
「車両の神様」と呼ばれた父・ 安次郎、 東北新幹線の車両開発や台湾新幹線の開業に尽力した次男・隆と、 親子三代にわたって日本の鉄道の発展に寄与した。
28 通勤形電車


通勤形電車の進化
1900年代の初めまで都市内の交通は主に路面電車などに頼っていましたが、 都市内で専用の線路を高速かつ高頻度で走る日本初の電車運転が甲武鉄道で始まりました (1デ963)。
1910年代に入り、利用者の増加に対応するため、 16m車体・扉を片側3ヶ所に増やした今日の通勤形電車の原型となる車両が登場しました (2ナデ6110)。
1930年代に入り、さらに利用者が増え、より大型の 車両が求められ、電動車としては国鉄初の20m車体の電車が登場しました。
1両あたりの定員が増加し、ステップをなくした3つの 自動扉やロングシートなど、 通勤電車の標準的な構造となりました (3クモハ40)。
さらに1960年代に入ると、 大都市圏の通勤・通学 ラッシュはますます激しくなり、片側4ヶ所の両開き扉による乗降時間の短縮、 高加減速による高密度運転ができる電車が登場 しました (4クモハ101)。
この形は現在の電車も同じです。


29 クハ181
運転士が乗るけれど、モーター自体は搭載していない普通車を「クハ」と呼びます。


クハ181
快適な車内、 高速運転、 ビジネス特急の登場
151系は国鉄初の特急形電車として1958年東京~大阪・神戸間の特急「こだま」でデビューしました。
最高速度110km/hで東京~大阪間の日帰りを初めて実現し、 高速列車を電車主体にした立役者です。
その後急こう配と雪の多い路線向けに改良した 161系も登場し、 両者は後に181系と改称されました。


展示車両(ナハネフ221)について
登場の背景
20系客車が登場した頃の夜行特急は、 寝台車だけでなく 座席車を連結し、さまざまな旅客需要に応えていましたが、 東海道新幹線開業後、 寝台車を中心に運行することとなり、 1964(昭和39)年、展示車両のナハネフ22形式が製造され ました。 「あさかぜ」には1965(昭和40)年10月1日のダイヤ 改正から使用されました。
外観の特徴
20系客車は寝台設備を納める車内空間を確保するため、 設計上定められた車両寸法の限界まで車体を広げており、 その屋根は丸みを帯びた形となっています。 また、 編成の 顔の部分ともなるナハネフ22形式の後部は、 曲面を描いた 外観に大きな窓ガラスが取付けられ、 それまでの客車とは 一線を画した優美なデザインが施されています。
展示車両のナハネフ221は、 九州方面の特急、 東北方面 の特急・急行列車として1986(昭和61)年3月まで活躍した 車両です。


30 D51シミュレータ


31 御料車
31.1 8号

31.2 1号


31.3 2号


31.4 12号


31.5 7号

32 ナハネフ22
「ナハネフ」は列車の端(先頭や最後尾)に連結され、車掌が乗り込むB寝台車です。
ナハネフ22
「走るホテル」 と呼ばれた憧れのブルートレイン
固定編成を採用し、 発電機を搭載した電源車を連結したことで、 全車両に冷暖房が装備されました。
また、 窓を固定式の二重窓にしたことで車外からの騒音が減り、車内の居住性が高くなりました。
空気バネの採用で乗り心地も向上し、それまでの客車列車と比べ快適な車内が実現した20系客車は走るホテル」 とも呼ばれました。
33 EF58

EF58
速く、長く、続けて走れる電気機関車
1946年、この機関車は車軸と軸受間の摩擦を減らす 「コロ軸受」 を採用して登場しました。
これにより長距離連続運転が可能になりました。
登場当初は戦争中の簡略設計の影響で故障が多発していましたが、 車体載せ替え改良後は性能が安定し、1958年までの間に172両が製造されました。
34 ED40


急勾配を克服する
鉄レールと鉄車輪の粘着によって走る鉄道は、 勾配 (坂) を登ることが得意ではありません。
しかし、碓氷峠は10kmほどの短かい区間にもかかわらず、高低差が500m以上もあります。
勾配を緩めるに は大きく遠回りした上、 長いトンネルをいくつも掘らなければなりません。
そこで急な勾配でも列車が運転できるよう、 車両側に取り付けた歯車 (ピニオンギア)と地 上側の歯状レール(ラックレール) をかみ合わせて走る
ラック式鉄道のなかから、 スイス人技術者R アプトが 考案した「アプト式」を採用することが決まりました。
そして、 11.2kmの間を最大66.7%という急勾配で建設されたのです。
勾配を緩和して登る方法
山を越える鉄道が急勾配を避けるためには、トンネルで抜けるの が最も効果的ですが、 多額の費用と高度な掘削技術が必要です。
そのため、山のすそ野などを大きく迂回し線路延長を長くすること で勾配をゆるくする方法がとられています。
- ループ式
山をぐるりと一周するように回って急勾配を避けるもの。 上越線や 北陸本線などで採用されています。
- スイッチバック式
ジグザグに行ったり来たりしながら徐々に上っていくもの。
豊肥本線・木次線・箱根登山鉄道などで見られます。 また、勾配区間に駅 を設置するためにも設けられ、日本ではこのケースが大部分を占めています。

ED40
峠越えで活躍した国産初の電気機関車
碓氷峠を越える信越本線では、 66.7‰の急こう配があり、 急こう配を確実に走る 「アプト式」を採用しました。
蒸気機関車では輸送力が不足し、 さらに連続するトンネル内で煙が車内に充満し、 乗務員も乗客も苦しみました。そのため1912年に電化し、国鉄最初の本線用国産電気機関車ED40形を開発しました。
※66.7‰ (1000mにつき66.7m 登る傾斜を示す)



アプト式線路と鉄マクラギ (実物)
1963年(昭和38) まで、 信越本線横川~軽井沢間で使われたものです。
急こう配を登るため、歯レールと車両の歯車とをかみあわせて登ります。

群馬県安中市にある旧信越本線の碓氷第三橋梁(通称:めがね橋)です。
1963年の新線開通および1997年の信越本線廃止により鉄道橋としての役目を終え、現在は廃線跡の遊歩道「アプトの道」として整備されています。

「北斗星(ほくとせい)」は、かつて上野駅(東京)と札幌駅(北海道)を結んでいた寝台特別急行列車(寝台特急)です。
青い車体が特徴的で、「ブルートレイン」と呼ばれる夜行列車の一種として長年親しまれました。
日本からヨーロッパへの道
欧亜連絡ルート
1906(明治39)年3月に公布された鉄道国有法により、 主要な幹線鉄道の国有化で、 鉄道経営が統一し、 1912 (明治45) 年6月には新橋~下関間をおよそ25時間で直通する特別急行列車が走り出します。
当時は東京から下関へ、下関からは関釜航路で釜山へ、 そこから鉄道で中国大陸まで、さらにはロシアを経由してヨーロッパにいたる鉄道、 欧亜連絡ルートが整備され、一枚の切符で15日間かけパリまで行くことができました。
この列車は当時の日本を代表する国際連絡列車だったのです。

関釜連絡船の金剛丸
35 マイテ39
マイテは、「最高級(1等)の寝台や展望設備を備えた、最も重いクラスの客車」という意味です。

マイテ39
特別な旅を演出、豪華絢爛な内装の展望車
展望車は1等利用客のサロンとなる展望室、 展望デッキなどを備え、優等列車の象徴として列車の最後尾に連結されました。 日本で展望車が定期列車に使用されたのは1912年6月に新橋~下関間で運転を開始した特急列車が最初で、 この列車は1929年に「富士」と命名されました。



36 2階からの眺め


37 年表をちょっと掲示
















































