嘉永6年(1853年)にペリーが4隻の黒船を率い開国を要求して浦賀に来航した際に、幕府は、その回答を翌年に引き伸ばして江戸湾から退去願いました。
幕府は翌年の再来航に備え、江戸湾防衛を目的に砲台を築きました。
それが品川台場です。
江戸時代最後の国家的事業であり、また西欧式の築城術を取り入れた日本で最初の本格的な近代城郭でもあります。
韮山代官の江川太郎左衛門の献策で築造が決定し、そこに設置する大砲を作るために世界遺産で有名な伊豆の反射炉が建設されました。(建設当時は下田で後に韮山に移設)
もっとも韮山の反射炉の稼働は1857年でペリーの再来航の1854年には間に合いませんでした。
当時設置された砲台は佐賀藩の洋式砲が備え付けられています。
当初11基の予定でしたが資金不足により、第一、第二、第三、第五、第六台場の5基が完成しただけでした。
しかしながら砲台のお陰で第一回ペリー来航とは違い第二回の来航では、ペリーは江戸湾内にまで入らず横浜の地に降り立ちました。
台場には、大小260門の大砲が設置されたものの使用されることはなく、明治維新後も陸軍省が管理していました。
その後は民間に払い下げられました。
第三台場は関東大震災によって破壊されたため、復旧工事がおこなわれ現在は「台場公園」として一般公開されています。
第六台場は原型を残していたことから史跡保存のために上陸が許可されておらず、レインボーブリッジの遊歩道や台場公園から眺めることができます。
さて、現在の品川台場を確かめるべく、りんかい線の東京テレポート駅から第三台場跡(台場公園)を訪れました。
駅を降りて首都高に架かるテレポートブリッジを渡ります。
テレポートブリッジを渡り切って階段を下ると、お台場海浜公園です。
海浜公園の海岸線に沿って、先端の台場跡まで進みます。
最後の小道です。
~ 国指定史跡~ 台場公園 (第三台場)
1853年、 ペリーで知られる黒船の来航に備えて江戸幕府が品川沖に築いた砲台跡地です。
1926年には 「品川台場」として国の史跡に指定されました。
公園内は青々とした芝生が茂っており、レインボーブリッジを最も近くで見ることができる穴場スポット。
春は桜の名所となります。
お台場に遊びに来た際には、 歴史に触れあえる「台場公園」 へぜひ足を運んでみて下さい。
台場公園はあちら
この階段を上がるといよいよ台場跡地です。
台場の周囲の石垣は幕末当時のままで、地震にも強い布積という積み方で出来ています。
後に、新橋-横浜間を走る日本初の鉄道の軌道(高輪築堤)が品川沖を走るときに、この時台場を作った工夫と台場に使われた石が使われたとのことです。
都立台場公園のあらまし
台場公園(第三台場)
「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船襲来にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。設計者は伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永6年(1853年)8月に着工、1年3ヶ月の間に6基が完成しました。
現在は大正15年(1926)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されています。
このうち第三台場は、昭和3年東京市(都)によって整備され、台場公園として開放されています。周囲には、海面から5~7メートルの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬庫跡などがあります。
四角い堤防の下には陣屋跡があります。
三番台場の防備は、埼玉行田にあった忍藩が担当していました。
降りられる場所は写真の一か所です。
台場跡の海縁から歩いてきた道を撮影しました。
第三台場から、コンテナの荷揚げクレーンの方角を見ると、洋上に浮かぶ第六台場が見えます。
第六台場は史跡保存のために一般の上陸が許可されていません。
第六台場は海側からも撮影しています。「東京湾クルーズ: お台場、レインボーブリッジ」
これが砲台跡です。
これは かまど の跡になります。
陣屋跡です。
法面には弾薬庫あとがあります。
砲台跡からレインボーブリッジを撮影しました。
海浜公園からフジテレビを撮影しました。
砲台跡の見学も含め、東京テレポート駅—砲台跡の往復で小一時間の工程でした。
あいにく雨がぽつぽつしていたため、台場跡の濡れた草で靴が染みてしまいました。
草刈りのタイミングにもよりますが、あまり人が見学に来る所でもなさそうなので、陣屋跡などは夏草が元気に伸びています。
少しでも伸びていると雨の日は長靴でないと厳しいです。