ナチス・ドイツ敗戦後の1945年から1946年にかけてソ連軍占領下のポーランドに近いドイツのリーツェンで伝染病医療センターの責任者として、伝染病と闘い多くの人々を助け、ついには自らも発疹チフスにかかり亡くなった八王子市出身の肥沼信次博士顕彰碑は市内の中町公園にあります。
帰国することを夢見て、病魔に倒れ客死した肥沼に地元の人たちが「お帰りなさい」の言葉を掛けています。
碑の側面に刻まれた文は以下です。
肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)博士
<1908年-1946年>
八王子市中町出身の医師、 肥沼信次博士は、第二次世界大戦直後旧東ドイツのヴリーツェン市で、当時死の病であった発疹チフスの治療にあたり多くの尊い命を救いました。半年にわたる献身的な治療活動の果て、自らもこの病に感染し、37歳で亡くなりました。
こうした功績から博士はヴリーツェン市の名誉市民として、今もなお多くの市民から敬愛されています。
「誰かのために生きてこそ、人生には価値がある」
これは、肥沼信次博士が尊敬していたドイツの物理学者、アインシュタインの言葉です。
肥沼信次の年譜
1908年
八王子市中町の医師であった父・肥沼梅三郎、母・ハツの次男として誕生
1921年
旧制八王子第三尋常小学校(現・八王子市立第三小学校)卒業
1926年
旧制府立第二中学校(現・都立立川高校)卒業
1934年
日本医科大学卒業、東京帝国大学医学部放射線医学教室にて研究活動に従事
1937年
ドイツへ渡航、ベルリン大学放射線研究所に入所
1945年
ヴリーツェン伝染病医療センター長に任命され、発疹チフスの治療に尽力
1946年
発疹チフスに感染、「日本の桜を見たい」との言葉を遺し逝去(37歳5ヶ月)
1989年
ベルリンの壁崩壊を契機に、八王子市出身であることが判明
1994年
ヴリーツェン市名誉市民の称号を贈られる 弟・肥沼榮治夫妻が初訪問
2017年7月10日、八王子市は肥沼信次博士ゆかりのヴリーツェン市との間で、八王子市制百周年を記念し、海外友好交流協定を締結しました。八王子の誇りである博士の功績が日本とドイツとの固い絆の象徴として、両国において末永く語り継がれていくことを願います。
顕彰碑の建立にあたり、2500名を超える方々から御寄付を賜りました。
2017年9月3日
Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会
目次
1 経歴
肥沼信次の生家(八王子市中町8番地9)の現在
顕彰碑のある中島公園から50m足らず東へ進むと複合ビルになっています。
下記地図では田中歯科医院の西隣となります。
ここで4人兄弟姉妹の長男として生まれました。
旧制府立第二中学校(現・都立立川高校)まではここから通いますが、卒業後(1926年)東京府文京区本郷の下宿に移り住み、旧制第一高等学校を目指しましたが、失敗し、東京物理学校(現東京理科大)教壇に立ち数学を教えていました。
1928年に日本医科大学を受験し合格しました。
日本医科大学時代の肥沼は勉強一筋で、人付き合いもあまりなく友達も少なかったようです。
1934年に日本医科大学卒業すると、東京帝国大学医学部放射線医学教室に研究員として入局します。
1937年3月か4月頃、ナチスの支配するドイツへ渡航、1937年6月から放射線研究所に入所しています。
ベルリン大学放射線研究所に入所するまでのわずかな間ですが、コッホ伝染病研究所に在籍していたことが、肥沼が母親に宛てた手紙に記されています。
1939年7月19日アレキサンダー・フォン・フンボルト育英財団交換留学生となります。
1939年9月1日ドイツはポーランドに対して宣戦布告。
1941年4月1日 ベルリン大学研究補助員として採用されました。これにより毎月大学から120ライヒスマルクが支払われることになりました。
1943年2月1日から研究助手の代理となり、月額342ライヒスマルクが支払われることになりました。
1944年10月ベルリン大学医学部教授となります。
1945年にシュナイダー夫人とその娘のクリステルとベルリンを脱出し、エーデルバルデに向かいます。
その後1945年9月1日にはリーツェンの医療センターの責任者として医療活動を行っています。これはソ連軍司令部の命令であったと考えられます。また同時に自宅でも診療活動を行っていました。
1946年3月8日発疹チフスに感染し亡くなりました。
2 ヒットラーの時代のドイツ
1933年88歳の白髪交じりの老衰しかかっていたワイマール共和国大統領フォン・ヒンデンブルク元帥は、ドイツ最大の政党-国家社会主義ドイツ労働者党の指導者で、オーストリア出身のアドルフ・ヒットラーを首相に任命しました。
第三帝国の誕生です。
日本の軍部と官僚の多くは、ナチス国家そしてヒットラーを偉大な国、偉大な政治家と絶賛しました。
第一次世界大戦の敗北で、ドイツは屈辱的・破滅的なベルサイユ条約を戦勝国に突き付けられ吞まざるを得ませんでした。
巨額の賠償金の支払い義務を課せられ、ドイツ国民は賠償金を払うために働いているに等しかったのです。
1933年2月、ドイツ国内には600万人の失業者がいました。
ナチはこれら失業者を住宅建設、農業、公共投資などに振り向けることにより1937年春には100万人足らずに激減しました。
こうして、ヒットラーはドイツ国民から熱狂的に受け入れられ、その陰で、独裁国家を作り上げていったのです。
3 済生学舎
済生学舎は日本医大の前身です。
済生学舎は長谷川泰(はせがわたい)という破天荒な医学者が創立しました。
長谷川は江戸時代に幕府の西洋医学所で将軍家奥医師の松本良純に学び、明治維新後は、医学所改め医学校の校長となりました。
1978年には長崎医学校長に就任したものの、政府の方針で廃校となったため、東京に戻り、西洋医養成学校を作りました。
これが済生学舎です。
済生学舎は、正規の医学教育を受けたのでは長い年月と費用がかかると言う欠点と、医師不足を手っ取リ早く解消するために、入学試験も無し、資格も問わず、ただただ医師開業試験の予備校としての性格に徹した西洋医養成学校として創立されました。
済生学舎は自由・放任主義の学風であり、こうした姿勢が済生学舎を繁栄させたのですが、逆に大学を中心として反発・批判する勢力も出ました。
結果的には、長谷川が大学派と文部省の攻撃に負けて1902年に済生学舎は閉鎖されました。
その後1904年(明治37年)に済生学舎の流れを汲む日本医学校が設立されます。
1926年(大正15年)の大学令によって旧制日本医科大学となります。
このような経緯から医師界では、済生学舎出身者は大学出身者からは認知されないような風潮があったとのことです。
肥沼の父、肥沼梅三郎も済生学舎出身の医師で、息子の信次には東大へ進んで欲しいと願っていたようです。
もちろん、肥沼信次の日本医科大学入学は1934年なので、正式な大学として入学した訳ですが、それでも学閥は依然としてあり、私学出身者と国立出身者の溝は深かったようで、それが後の肥沼の「東京大学医学部の博士論文」拒否に表れているとしています。
以上肥沼関連の時代背景に関する内容を抜き出してみました。