博覧強記

男鹿半島・八郎潟の干拓地とその成り立ち

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男鹿半島にかつてあった八郎潟の干拓地(今は大潟村)をバスで通過しました。

昔、社会の授業で習った場所で、ヤミ米を巡って、ニュースでも放送されていた覚えがあります。

何という事もない映像です。

果てしなく水田が広がっています。

バスガイドさんが元プロ野球選手の落合博満氏の話をしていますが、出身はこの秋田県男鹿市です。

1        大潟村

男鹿半島の付け根の部分には1957年頃まで、日本の湖沼面積では琵琶湖に次ぐ第2位の広さをもつ八郎潟がありました。

この八郎潟は、海水と淡水が混じりあう汽水湖でした。

戦後の食糧不足を解消するために、国の事業として農地を増やす目的で昭和32年から始まった干拓によって大部分の水域が陸地化され、昭和52年3月の完成時には17,239haの大地になりました。

新規水田への入植は昭和42年から始まり昭和45年の4次入植まで募集が行われました。

しかしながら昭和45年には既に米の生産調整が始まっています。

その後、畑作への転換が推奨され、国との調整が行われます。

昭和53年には、農水省が作付面積制限を超えて苗を植えた田んぼの農家に青刈り指示がでて、それに従わなかった農家が訴訟を受ける事態になりました。

その後も、その状態は続きますが、58年以降は国の強硬姿勢が従来のように強くなかったため、生産調整を守る農家と守らない農家に2分されました。

当時の米は食管法で全量が政府買い入れでしたので、超過米はヤミ米となって市場に出回りました。

こうして大潟村では生産調整に協力した農家の米を扱うJAと、農家自身が作った“あきたこまち生産者協会”などの米集荷販売会社とができ、その状態が現在も続いています。

 

2        島と本土が砂州で繋がった例

2.1         男鹿半島

男鹿半島は6000年前の縄文海進のピーク期には日本海に浮かぶ離島であったと考えられています。

その後,半島南北に形成された海岸砂丘の発達によって,北側が本州と連結して半島となります。

半島の付け根の部分の八郎潟のその後は前述したとおりです。

 

 

2.2        皆生(かいけ)温泉海遊ビーチ

島ではありませんが陸地が繋がる例として、離岸堤防と陸が海流で運ばれた砂で繋がったところがあります。

鳥取県米子市の皆生(かいけ)温泉海遊ビーチがそれです。

グーグルアースで見ると、一連の離岸防潮堤(消波ブロック)に砂州が繋がっているのが見て取れます。

 

2.3        宍道湖、中海

島根県にある宍道湖と中海もかつては海でしたが、海流によって運ばれた砂が堆積し、海岸に突き出た半島の先端とくっつき湖ができました。

 

地球資源論研究室のサイト http://earthresources.sakura.ne.jp/er/Class/HCK_N-S.htmlから

宍道湖、中海ともに淡水と日本海からの海水が混じり合った汽水湖です。

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