史跡

大分旅⑤ 八幡総本宮 宇佐神宮

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宇佐神宮は全国に4万社あまりある八幡神社の総本宮です。

御祭神は、一之御殿  八幡大神(応神天皇)

二之御殿  比壳大神

三之御殿  神功皇后

比壳大神は、古くから宇佐の地で崇拝されてきた三女神(多岐津姫命・たぎつひめのみこと、市杵嶋姫命・いちきしまひめのみこと、多紀理姫命・たぎりひめのみこと)で、日本書紀において、宇佐嶋(うさのしま)に天降った女神です。

車で行く場合は、周辺には有料(400円でした)の駐車場があります。

 

1        宇佐神宮仲見世通り

宇佐神宮御由緒

当神宮は全国に四万社あまりある八幡社の総本宮であります。

神代に比売大神(ひめおおかみ)が馬城の峰(大元山)に御降臨になった宇佐の地に、欽明天皇三十二年(五七一)に応神天皇の御神霊が初めて八幡大神としてあらわれ、宇佐の各地を御巡幸ののち、神亀二年(七二五)に亀山の一之御殿に御鎮座になりました。

また、天平五年(七三三) 比売大神を二之御殿にお迎えし、のち弘仁十四年(八二三) 神託により神功皇后が三之御殿に御鎮祭されました。

皇室は我が国鎮護の大社として御崇敬篤く、特に八幡大神が東大寺大仏建立援助のため神輿にて上洛されたこと、また和気清麻呂公が皇統護持にかかわる

神託を授かった故事などから、伊勢の神宮に次ぐ宗廟、我が朝の太祖として勅祭社に列せられております。

 

 

2        神輿発祥の地

東大寺の大仏が完成した749年、八幡神と大神杜女(おおがのもりめ)が大仏を拝するため紫の輿(こし)に乗って奈良に向かったのが神輿の始まりとされています。

八幡神は神霊なので、実態は無かったと思います。

 

3        神武天皇聖蹟 狭顕彰碑

神武天皇聖蹟 狭顕彰碑

日本書紀によれば、神武天皇は御東征のとき、日向を発たれ、椎根津彦命の水先案内で豊後水道の難所を通り抜け、宇佐に上陸されました。

このとき宇佐国造の祖である菟狭津彦命・菟狭津媛命が天皇一行をお出迎えになり、一柱膝宮を建て饗(ご馳走)を奉ったことなどが記されています。

これを記念して昭和十五年にこの顕彰碑が建てられました。

一佐騰宮跡は寄藻川に架かる呉橋の南側の高台と伝えられ、この一帯は勝隈とよばれています。宇佐上陸の地とされる和気地区には舵鼻神社が、また大尾山の東側台地には椎根津彦命を祀る椎宮が鎮座しています。

 

4        神橋

5        表参道

流鏑馬は毎年7/31、8/1,8/2の御神幸祭で、この表参道を使って披露されます。

流鏑馬神事

流鏑馬の起源は、欽明天皇の御代、当神宮で「天下泰・五穀豊穣」を祈願し行われた矢馳馬(やばせめ)がはじまりともいわれています。

流鏑馬は疾走する馬の上から鏑矢(かぶらや)を射る武芸で、鎌倉時代に盛んになり、その伝統武芸は今日に続いています。

奉幣の儀が終り、鎧兜を着用し騎乗した総奉行をはじめ諸役の行列が、馬場入りし配置につき的がかけられると、馬場の両端から紅白の大扇をかざし、合図がかわされます。

合図を終えると、花射手ともいわれる一の射手が馬場末に馬を進め、揚扇を行い射儀がはじまります。

射手は馬を馬場元に向けて馳せつつ、矢をつがえなから、大きな声で「陰陽(いんよー)」という「矢声」を発します。

 

6        宝物館

月曜日に行きましたが、休館日でした。

7        能舞台

 

大江匡房

大江匡房は平安時代後期を代表する学者として有名です。

室町時代編纂の『公卿補任』に、 大宰府の長官 (帥) の補佐官 (権帥) 2度任命されたとありますが、 一度目は大宰府の次官(大貳・だいに) という役職でありました。

池内法華三昧堂の通称 「大貳堂」は、大江匡房の官職に由来すると伝えられています。

 

八幡さまと大江匡房(まさふさ)と源義家

源義家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たります。 寛徳2年 (1045) 石清水八幡宮の神前で元服し、八幡太郎を名乗った武将として知られています。

大江匡房公が前九年の役(1051)の後、京の藤原頼通邸で源義家の戦功話を評した際、「器量は賢き武者なれども、なお軍(いくさ)の道を知らず」とつぶやきました。

そのことが義家本人に伝わったところ、 義家は怒り出すどころか辞を低くして匡房公に師事し、兵法を学んだと言われています。

匡房公より兵法を教授された義家は、 永保3年 (1083) に起こる後三年の役で成功を収め、関東における源氏の名声を高めました。

このことは源頼朝の鎌倉幕府創建の礎となったといわれています。

八幡神を氏神と尊崇し、 ご神徳を戴いた清和源氏は、 八幡さまを全国各地へと勧請していきました。

 

8        呉橋の横の橋

隣の呉橋が通れませんので、普段はこの橋を使って通行しています。

9        呉橋

鎌倉時代前からある橋で、中国の呉の人が架けたと伝えられ、名前の由来となっています。

今は西参道と呼ばれていますが、昭和初期までは、ここが表参道でした。

10年に一度の勅使祭(天皇の使者が派遣されて行われる神社の祭祀)のときにだけ扉が開かれ通行可能となります。

 

10     弥勒寺跡と八坂神社

八坂神社と弥勒寺

明治維新までこの場所には弥勒寺という神宮寺が存在していました。

弥勒寺金堂の御本尊は、延命長寿・病気平癒をもたらす薬師如来で、この八坂神社は弥勒寺の守護神として、寺院の脇にお祀りされました。

御祭神須佐之男命(すさのおのみこと)は、別名を牛頭天王と称し、疫病鎮静のために創建された京都の八坂神社と共に、疫厄消除の御神徳で有名です。

神仏習合に於ける須佐之男命の本地仏が薬師如来であることから、この八坂神社では悪疫退散を祈る鎮疫祭・ちんえきさい(心経会・しんぎょうえ)が毎年二月十三日に斎行され、諸病災禍の祓除と国土の安寧が祈念されてきました。

 

11     上宮の門

12     夫婦石

この石を踏むと夫婦円満や縁結びになるとのことです。

13     修理中の西大門

 

宇佐神宮

御祭神 一の御殿 八幡大神(応神天皇)

二の御殿 比賣大神(ひめたいしん)

三の御殿 神功皇后(じんぐうこうごう)

 

宇佐神宮は全国八幡社の総本宮勅祭(ちょくさい)の大社であり、伊勢の神宮につぐ宗廟(そうびょう)、我朝(わがちょう)の太祖として歴代天皇より篤い御崇敬を受けています。

また、私たちの祖先は全国各地に宇佐八幡宮をお迎えして、氏神や鎮守のお社としました。

神代に三神の比賣大神がご降臨(こうりん)されたこの宇佐の地に、約千四百年前の欽明天皇三十二(五七一)年、応神天皇のご神霊が、はじめて八幡大神としてあらわれ、各地をご巡幸後、この亀山にお鎮まりになりました。

のちの弘仁十四(八二三)年、応神天皇の御母君であられる神功皇后をお祀りし、三殿のご鎮座となりました。

 

14     上宮本殿

礼拝方法は 「二礼・四拍手・一拝」で、この礼拝方法は、出雲神社と同じです。(この二社だけが特別)

左手に見える山が、宇佐嶋とも呼ばれる御許山(馬城峰)です。宇佐神宮発祥の聖地として摂社大元神社が鎮座し、現在でも毎月の祭祀が厳修されています。

 

15     下宮の門

もう一度下りて、今度は下宮に向かいます。

 

16     下宮

祭神は上宮と同じです。

下宮

御祭神

一之御殿  八幡大神(応神天皇)

二之御殿  比壳大神

三之御殿  神功皇后

 

下宮は嵯峨天皇の弘仁年間(八一〇~八二四)に朝廷より造宮使が遣わされ、上宮の御分神をお鎮祭し創祀されました。

古くは御炊殿(おいどの)ともいわれ、神前にお供えする御饌(食事)を炊く竈殿(現下宮授与所)があり、農業・漁業をはじめとする一般産業の発展充実を御守りになる神様であります。

上宮と同様に歴代の皇室をはじめ、国民の崇敬篤く、特に宇佐地方では「下宮参らにゃ片参り」と称され親しまれております。

また、一之御殿には、八幡大神を顕しになった大神比義(おおがのひぎ)の神霊を祀る、大神祖神社が相殿として奉斎されております。

宇佐神宮庁

 

17     宇佐八幡神託事件

この話も、昔何かの本で読んで、神託って、人が都合よく作るものじゃないの?

と思った覚えがあります。

削道鏡も和気清麻呂も互いに宇佐八幡を語って自分たちの意思を主張しているに過ぎないと思っています。

奈良時代の神護景雲3年(769年)、孝謙天皇の信任が厚かった弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が法王の位に就くと、大宰府の主神中臣習宜阿曽麻呂(かむづかさなかとみのすげのあそまろ)が、宇佐八幡大神から「道鏡をして帝位に即かせるならば、天下は泰平である。」という神託がもたらされたと、偽りの御託宣で皇位を奪わんと謀った。

称徳天皇は、確認のため和気清麻呂公を宇佐に遣わすが、一方、道鏡も清麻呂公を密かに呼び、自分の非望が叶ったときには、太政大臣に就かせるとそそのかした。

清麻呂公は都を発って十日余りで宇佐の地に着き、斎戒沐浴して神殿にぬかずき、7月11日に「我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣をもって君とすること未だかつてあらざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は速かに払い除くべし。」との御神託を八幡大神より授けられる。

同月21日に都に帰り着いた清麻呂公は、この御託宣を文武百官の前で天皇に直奏したので、僧道鏡の非望は打ち砕かれた。

怒った道鏡は、「神教を偽り、天皇を欺き奉る者である。」と、清麻呂公の名を別部穢麻呂(わけべのけがれまろ)と改名し、足の筋を切って大隅国(鹿児島県)へ配流してしまった。

宝亀元年(770年)に光仁天皇が践祚(せんそ)されると、道鏡の奸悪は悉く明らかになり、道鏡は下野国(栃木県) 薬師寺別当を命ぜられ下向し、和気清麻呂公は姓氏を復され都に呼び戻された。

この事件後、宇佐神宮への勅使(天皇のお使い)は、宇佐使また和気使と呼ばれるようになり、和気氏が派遣されることが例となった。

八幡大神の国体擁護の御神徳と、和気清麻呂公の至誠の精神が、御皇室をお守りした物語りです。

 

そして一つこの事件で面白いのは、なぜ神託を貰いに、伊勢神宮ではなく宇佐神宮に行ったのか?
伊勢神宮は、天皇家の始祖 天照大神 が祀られているところなので、神託を得るにはふさわしい所と思われますが、わざわざ遠い大分の田舎まで出向いて、神託を貰うのは、天皇家にとってよほど重要な場所であった可能性があります。

ここが、大和朝廷の発祥の地であった可能性もあります。

そう思うと、入口にあった「神託を授かった故事などから、伊勢の神宮に次ぐ宗廟、我が朝の太祖として勅祭社に列せられております。」は謙遜のし過ぎで、"伊勢神宮が次ぐ" のではないでしょうか。

もっともこの説は、井澤元彦の受け売りですが。

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