史跡

大分旅⑦ 耶馬渓「禅海和尚手掘りの青の洞門」と 石橋のまち・院内

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1        耶馬渓

耶馬渓はピンポイントの場所ではなく、この地区を流れる山国川、山移川沿いの地域全体の呼称です。

そのため、あらかじめ計画して順序良く回らないと 効率が悪くなります。

今回は、宇佐八幡から山道を通り一目八景と呼ばれる南の地域へ向かい、そこから高速道路(2023/4/10時点では無料)で北の青の洞門へ移動しました。

1.1         一目八景

深耶馬渓観光案内所に車を止めて、歩いて5分くらいの展望台に向かいます。

写真では分かりませんが、その場に佇むと目の前にそびえ立つ岩山に圧倒されます。

1.1.1    鳶巣山(とびのすやま)

左の岩が。鳶の幼鳥が餌をもらおうとくちばしを天に向け、その岩の廻りの樹木が巣にお用に見えることから鷹巣山と呼ばれています。

1.1.2    夫婦岩(ふうふいわ)

二つの岩が寄り添うように立つ姿から夫婦岩と呼ばれています。

1.1.3    群猿山

下から眺めると猿が群がっているように見えることから群猿山と呼ばれています。

 

1.1.1    仙人岩

 

 

1.2         耶馬渓橋

耶馬渓 橋

国指定重要文化財 (令和4年9月20日 指定)

一基、石造8連アーチ橋、橋長115.7m、 幅員4.5m、高欄付、 中津市所有

大正12年(1923) に竣工した、 現存する国内最長の石造アーチ橋です。

耶馬渓が観光地として注目を集めはじめた20世紀初頭に、 東城井村(ひがしきい)が競秀峰(きょうしゅうほう)を山国川の対岸から展望するために作った観光道路の一部として、 架橋されました。

地域では 「オランダ橋」の愛称で呼ばれており、国指定名勝 耶馬渓のうち、 「山国川筋(やまくにがわすじ)の景」 の構成要素でもあります。

単なる観光だけでなく、地元の人々の生活道路として利用されています。

 

1.3         青の洞門

車で通行可能です。

対岸から見るとこんな感じです。

青の洞門にちなんでネモフィラ?なのでしょうかね。

青の洞門は菊池寛の短編小説「恩讐の彼方に」で全国区となりました。

「恩讐の彼方に」 と菊池寛

菊池寛は、 明治21年(1888) 現在の香川県高松市に生まれ、25才で短編小説 「禁断の木の実」を発表して以来、 大正から昭和にかけて短編小説、戯曲、新聞小説、 大衆小説などに数多くのすぐれた文芸作品を発表しました。

また、作家活動だけでなく、文藝春秋社を創設、「芥川賞」、「直木賞」、「菊池寛賞」を設定するなど、作家の育成や地位向上にも大きな功績を残しました。

代表作には、 「父帰る」、「忠直卿行状記」「藤十郎の恋」、「真珠夫人」などがあり、 作品のいくつかは学校の教科書にも取り上げられています。

「恩讐の彼方に」 は、大正8年(1919) に耶馬渓の青の洞門に伝わる話を題材にして書かれたもので、それまでは、江戸時代の道徳に反するため、小説にも芝居にもならなかった話を、仇討ちの非人間性をデーマに小説に仕上げたものです。 翌大正9年には「敵討ち以上」という題で、文学座により劇場公演されました。

禅海和尚と青の洞門

越後の人禅海和尚は、仏道修行のため回国行者となって諸国をめくリ享保の頃この地にたたまたま、山国川ぞいの壁にかかる鎖渡しの桟道で、踏みはずして墜死する惨事を目撃、仏道修行者として、この危難をとりのぞき、衆生放済の門を開かんものと大誓願を発し大岩壁にむかって鑿(のみ)と鎚(つち)をふるいはじめる、悲領三十年、岩をも徹す禅海和尚の不動心は、ついに三四二メートルにおよぶ墜道を貫通させた。

禅海和尚と青の洞門一競秀峰下にその偉業と芳名を干載に畄(とど)むると共に、万人をして、禅 の心をもって世に処せんと、その心気を奮い立たせる永遠の師である。

平成二年 八月 十五日  本耶馬溪町

 

 

日本で最初の有料道路「青の洞門」

江戸時代に始まった灌漑用水路の建設によって山国川の水がせき止められ、この辺一帯は川の水位が上がりました。

そのため通行人は競秀峰の岩壁に作られた鉄の鎖を命綱にして変危険な道を通っていました。

旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚は、この危険な道で人や馬が命を落とすのを見て心を痛め、享保20年(1735年)から自力で岩壁を掘り始めました。

寛延3年(1750年)には第一次落成式が行われ、開通後には「人は4文(現在の貨幣価値で約70円)、 牛馬は8文 (現在の貨幣価値で約140円)」の通行料を徴収したという話が伝わっており、日本で最初の有料道路とも言われています。

明和元年(1764) 約30年余りの時間を費やして全長342m (うちトンネル部分は144m) の洞門をついに完成させました。 現存する数々の写真や資料から、 明治時代中期には洞門上にそびえる「競秀峰」とともに、日本全国からたくさんの観光客が訪れる観光名所となっております。

そしてに越された手掘りの洞門はここから入ります。

反対側の入口に出ました。

この先で禅海和尚の手掘り洞門の一部を見ることができます。

諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚は、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすとの話をきいて、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと決意し、単身難事業に着手した。

その後、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇って「ノミと槌だけで三十年かけて掘り抜いた」といわれている。

現在の洞門は、当時からは大きく変化しており、明治四十年にはほぼ現在の洞門に近い形状で大改修が行われ、現在では手掘り洞門の一部を残すのみである。

 

1.4         馬渓橋

耶馬渓橋から5.3km山国側に沿って南に進むと耶馬渓橋にそっくりな石橋があります。

耶馬渓三橋のもう一つの羅漢寺橋脇も車で通りましたが、駐車場が見当たらなかったため横目でちらっと見ただけでした。

中津市指定有形文化財 馬溪橋

往時、日田代官道 (戸原側) と中津藩道(平田側) の往来は、夏は渡し船、春秋冬は仮橋が架けられていました。しかし仮橋は増水のたびに流されて、両岸の住民はその都度修復を行う苦労が続いていました。大正三年に架けられた下城井橋も大正十一年の大洪水で流失し、今も川底に橋脚基礎が残っています。

人々の苦労を目の当たりにした地元の石工・甲斐伊蔵は、雨でも流されない永久橋を架けることを決意し、潜水夫を雇い、川底の岩盤まで掘り下げ頑丈な基礎を造りました。 架橋は難工事の連続で、費用負担や樹木の伐採、石材運搬など、地元をあげての一大事業でした。馬溪橋が完成したのは、耶馬渓が国の名勝に指定された大正十二年。

この地を訪れた田山花袋は、「耶馬渓紀行」に馬溪橋のことを「風情のある石橋」と記しています。また、橋は映画「寅次郎の休日」のロケ地にもなりました。

馬溪橋は石橋アーチ橋としては全国四番目の長さを誇り、同じく山国川に架かる耶馬渓橋

(長さ全国一位)、羅漢寺橋(長さ全国三位)とともに「耶馬三橋」として知られる貴重な石橋です。

石橋の北側の丘陵には、黒田官兵衛の重臣・栗山利安(善助)の城であった平田城跡があります。城跡には十六世紀後半に築かれた石垣が残っています。

平成元年五月一日指定

中津市教育委員会

 

1.5         耶馬渓ダム

2.     日本一の石橋のまち・院内

その数75基。宇佐市院内町は日本一を誇る石橋のまちです。 これらの石橋は、江戸時代の終わりから昭和のはじめにわたって架けられました。

院内町に石造アーチ橋が多いのは、いくつもの深い谷に集落が点在するという地形上の理由と、川が急流で、 木橋では流されてしまうため石橋が求められたという背景があります。 もともと院内では谷あいの段々畑を区切る石垣や水路をつくるため、石工の技術が男たちに必要とされていました。 名棟梁・松田新之助に代表される優れた院内の 「匠の技」が、「日本一の石橋のまち」をつくった大きな力となったわけです。

石橋の貴婦人と呼ばれる 鳥居橋

鳥居橋の近くにあったアーチ式石橋の作り方です。

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