博覧強記

ヤン・ヨーステン記念碑

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東京駅の八重洲側、八重洲通りを200m位行ったところの中央分離帯の中にヤン・ヨーステン記念碑があります。

ヤン・ヨーステンは江戸幕府の外交顧問でした。

ヤン・ヨーステンは、1598年オランダ船リーフデ号に乗り込み、ロッテルダムから出航し、マゼラン海峡を通って日本を目指します。

出航時の乗組員は110人ほどいましたが、日本の豊後に漂着した1600年(慶長5年)時の生存者はわずかに24名でした。

ウィリアム・アダムス(三浦按針)もこの中の一人です。

 

良く知られていますが、八重洲は、ヤン・ヨーステンの名にちなんでつけられた名前です。

 

 

碑を目指して東京駅から歩いていくと、最初に目立つのが、道路の中央にある3角形の平和の鐘です。

ヤン・ヨーステン記念碑はその平和の鐘の横断歩道側にあります。

2つの羅針盤の輪が天球儀の形に組み合わされています。

ヤン・ヨーステン 1557頃~1623

1600年(慶長5年)、オランダ船リーフデ号でウイリアム・アダムズらと豊後に漂着した。

そのまま日本に留まり、徳川家康の信任を得て、外交や貿易について進言する役目についた。

彼の江戸屋敷は和田倉門-日比谷間の内濠の沿岸に与えられ、この地が彼の名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、明治まで続いた。

現在は中央区の八重洲としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っている。

ヤン・ヨーステン像:オランダ人 L.P.ブラート作

 

日本とオランダの関係は、ウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらの来航によって始まった。

1609年(慶長14年) 平戸にオランダ商館が設立され (後に長崎に移る)、鎖国時代の日本のヨーロッパに対する唯一の窓口になり続けた。

オランダがもたらした学術・文物が日本に与えた影響は大きく、明治以後の日本近代化の大きな礎になった。

とくに中央区とオランダとの歴史的な関係も深く、日蘭修好380周年を記念してここにモニュメントを設置し、永久にこの友好を保存するものである。

 

1980年4月20日  東京都中央区

ちなみに、三浦按針の屋敷は、この場所ではなく日本橋の北側にありました。

平和の鐘は、昔から続くオランダとの友好が永久に続くことを願い、1989年4月(平成元年)日蘭修好380年を記念しヤン・ヨーステン記念碑の9年後に作られたモニュメントです。

毎時0分になると鐘が鳴らされます。

夜の平和の鐘も美しい趣があります。

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