清川八郎といえば、幕末の「新選組」発足の過程で必ず出て来る人物です。
会社の近くの伝通院の中にお墓があると聞いて、昼休みに散歩がてら行ってきました。
文久3年(1863年)2月23日、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として総勢約250名の浪士隊を率い京へ出発しました。
その時の集合場所が、この伝通院でした。
浪士組には後の新選組の芹沢鴨・近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・沖田総司・原田左之助も参加していました。
しかし、最初から白川の狙いは佐幕ではなく、尊王攘夷でした。
京都に到着した夜に浪士を壬生の新徳寺に集め、本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べました。
これに対して、芹沢・近藤らが猛反対し、京都守護職を務めていた会津藩預かりとなって「壬生浪士組」を名乗りました。
一方で清川は帰還命令によって江戸に帰還した後に幕臣によって斬殺されます。
伝通院の前の通りの掲示板です。伝通院の塔頭(たっちゅう: 大寺・名刹に寄り添って建てた 塔や庵などの小院)である処静院が浪士隊結成の場所です。
土方歳三の家は、土方歳三資料館のある日野市にありますので、そこからてくてくと歩いてここまで来たのかと思うと随分遠いところまで来たのだと思います。
伝通院の看板が寺の通りに掲げてあります。
正面の門はさすが古い立派なお寺と思わせる荘厳な作りです。
清川八郎のお墓は、目立つほど立派なものではなく、ひっそりと他のお墓と同じ大きさで建っています。