西伊豆の土肥金山が三菱マテリアルグループの土肥マリン観光(株)が金鉱のテーマパークとして大々的に観光客を集めているのとは対称的に、龕附(がんつき)天正金鉱(伊豆市指定文化財)はほぼ当時のまま姿を止める伊豆最古級の手掘りの坑道跡です。
この金山跡は、個人所有となっており、家族で、金山の案内をしながら、細々と維持をしている感じでした。
今回の見学では、機関銃のようにしゃべる おじさん(82歳と伺いました)が案内人でした。
ネットの書き込みでは おばさんの時もあるようです。
金山跡を、ご先祖様が残してくれた土地とおっしゃってました。
この金山は、四百数十年前の後北条氏の時代に武田金掘衆が掘った竪坑(垂直に掘り下げた坑道)の下へ、天正5年(1577)から、横方向から斜坑を掘り進めたものではないかと考えられています。
下図に坑内の地図があります。
坑口を進むと階段があり、地下に下がっていきます。
地下の平坦な坑道を少し進むと最深部の龕にたどりつきます。
抗口に行くには少し坂道を登ります。
坂道の途中に古びたジオラマや掲示板が展示してあり、説明があります。
「ネコババ」の説明もありました。
金鉱山で掘られた金を含んだ鉱石を細かく砕いて、水に流すと、比重の重い金は流れずとどまる。
こうして金の破片を見つけていました。
この工程を『猫流し』と言います。
この猫流しの過程はオバちゃんが行なっており、「ネコババ」と呼ばれました。
このおばちゃんが、金をポケットに隠して持ち帰ってしまう行為から「ネコババ」という言葉が生まれたとのことです。
一つのジオラマがイノシシによって壊されたとの説明もありました。
伊豆の金山は、佐渡の金山とともに古くから聞こえ高く、広く人々に知悉(ちしつ)されています。天正年間の頃より、伊豆各地で採掘され始めて、大判・小判の地金(金塊)になりました。
中でも此の坑道(間歩)はもっとも古く、金山の嗃矢(こうし:最初)と言われています。
此の金山は、天正5年(1577)より採掘され始めたもので、戦国時代の技術が当時のまま保存されており、江戸幕府金山奉行の大久保石見盛の姿が彷彿されます。
坑道は金銀鉱脈を追い、金槌と鏨(たがね)を用いた手掘りによるものです。
全長は約33間(約60m)で、途中には、鉱床と天井が階段になっているところがあります。
抗口より約40mの処には、地上へ抜ける高さ約23mの建更(換気・煙貫)があります。
これらは、構内で待つ明かりの灯を使用していたので、空気(酸素)を循環させる必要があるためです。
坑道の最奥部は、扇方のきわめて珍しい神庫(龕)になっています。
金山としては稀有のものであります。龕構造の由来は、此の金山の金子(坑夫)達が、最奥部中央に現存する鉱脈が多量の金銀を含有している事に驚き、更に掘削を続けて、神秘幽玄な深奥を汚すと神の祟りがあると恐れ、鉱脈を山の神として祭祀する為に、祠を刻んで休山したものです。
考古学の泰斗(たいと:権威者)軽部慈恩氏が、これを以て、「龕附(がんつき)天正金鉱」と名付けられました。
荘厳なこの手掘り行動は、精密精細を極め、龕の造成を始めとして、掘削技術は一種の芸術であり、考古学・地質学・経済学上の参考資料として高く評価され、現愛、土肥町指定文化財になっています。
また、この山麓の地名は「釜屋敷」と呼ばれていますが、採掘した金銀鉱を精錬した後であります。
ここが抗口です。
抗口から少し進んだところです。
この黒い部分が金鉱。
階段です。
階段の下の方に23mの竪坑があります。
これは下から竪坑を見上げた写真。
階段を降り切ると龕まで一直線。
坑道の側面には ひだ状の起伏があり、ふいごの原理を応用して、人の出入りにより、坑内の換気を助ける役割を果たしています。
龕の造成された理由は、当時は換気の技術が無く、33間(約60m)で坑内の空気が希薄になると思われたからです。
帰りは地下坑道から人が十分通れるように広げられた保安排水口に添って出てきました。
出口近くには、東京品川のお台場の石を切り取った後があります。
そういえば、江戸城の石垣も伊豆から運んだ石でした。
こちらは体験掘りの場所です。
あいにくの雨で、坑内がびしょびしょだったため、見学だけして帰りました。
これが金鉱石です。
山麓の精錬所跡です。
アマルガム精錬法で精錬された地金は、御用船で駿府と江戸の金座に送られました。
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