旧塩原御用邸の御座所は塩原の人びとに「天皇の間」と呼ばれ、昭和56年に塩原の福渡から現在の地に移築し、「天皇の間記念公園」として公開されています。
あまり広い敷地ではないですが、建物の中には、昔を偲ぶ展示品が陳列されています。
NHK大河の「いだてん」で金栗四三とストックホルムオリンピックに行った、三島弥彦の父・三島通庸(みちつね)が建てた別荘を、兄である弥太郎が献上し、その土地に大正天皇が増築したものがここで移築保存されている建物です。
塩原温泉にはかつて皇室の避暑地として御用邸が置かれていました。
明治35年夏、ときの皇太子殿下、後の大正天皇におかれましては、初めて塩原に行啓あそばれました。
翌年の夏にも再び行啓になられましたが、御滞在中福渡の三島弥太郎子爵(後の日本銀行総裁)の別荘を度々ご訪問になられました。
皇太子殿下には、塩原の自然、気候、温泉等を大変お好みになられましたため、三島家では福渡の別荘地の献上を皇室に願い出ました。
別荘地の献上は御嘉納となり、以来、「塩原御用邸」として度々行啓になられました。
ご即位の後、天皇となられてからも塩原の地を大変愛され、また貞明皇后、御幼少の昭和天皇、秩父宮殿下、高松宮殿下、久邇宮(くにのみや)と称された頃の香淳皇后をはじめ、多くの皇族方に塩原御用邸はご利用されてまいりました。
特に澄宮と称された頃の三笠宮崇仁親王殿下には、毎年ご来訪がありました。
太平洋戦争中には、昭和天皇の皇女であられた孝宮(たかのみや)、順宮(よりのみや)、清宮(すがのみや)の三内親王殿下が塩原御用邸に疎開されています。
戦後昭和21年に御用邸は廃止され、皇后陛下より『視力障害者の保護のため使用せよ』との思し召しをいただき、内務省(現在の厚生労働省)へ移管され、翌年9月には全国御巡幸中の天皇、皇后、両陛下の行幸啓をたまわりました。
後に「国立塩原光明寮」を経て、昭和39年には「国立塩原視力障害センター」と改名し、視力障害者の方たちの教育施設として平成25年3月に閉鎖されるまでその役割を果たしました。
旧塩原御用邸の御座所は塩原の人びとから親しみを込めて「天皇の間」と呼ばれ、昭和56年この地に移築保存し、「天皇の間記念公園」として公開されかつての皇室の避暑地として往時を偲ばせています。
入口で靴をぬいで上がります。
防寒対策のためか、建物の内部は2重の渡り廊下となっています。
昔の御用邸の模型です。
「天皇の間」は、手前の緑の屋根の建物です。
旧御用邸の広さが窺えます。
三島弥彦です。これが金栗四三とストックホルムオリンピックに行った本人の写真です。
大河ドラマの中では、生田斗真が演じていました。
スポーツマンで、飛び入りで参加したオリンピック大会代表を決める「国際オリムピック大会選手予選会」の短距離徒競走で好成績を取り、オリンピックに出場します。
もっとも、ストックホルムに行くために、自分で旅費を工面する必要がありましたので、成績もさることながら、ポンと旅費を出してくれる実家の財力も関係していたと思います。
オリンピック後は、兄のいる横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう・東京銀行[現在の三菱UFJ銀行]の前身)に入行し、世界各地を回ります。
三島弥彦の父親、三島通庸(みちつね)です。
薩摩出身で、大久保利通に引き上げられ新政府内で活躍します。
東京府参事、鶴岡(酒田)・山形県令を歴任し、警視総監も務めました。
塩原の地を開拓しました。
三島弥太郎は、弥彦の兄です。
徳富蘆花の小説『不如帰』の登場人物、川島武夫のモデルでもあります。
小説と同じように結核を患った妻と離婚し、別の女性と結婚しています。
随分、冷たい人物に見えますが、一生別れた元妻の写真を携帯していたそうなので、昔の家族制度の中では止むを得ない決断だったのかもしれません。
大正天皇の第四皇子三笠宮崇仁親王殿下は、童謡の宮様と言われるほど作歌に秀でられ、塩原で詠まれた御歌もあり、この歌碑はその代表的なものです。
三笠宮殿下の卒寿(満九十歳)を祝い、また塩原の開湯千二百年を記念し福渡町内会が寄贈し、平成18年(2006)7月14日に、三笠宮同妃両殿下の御来臨を仰ぎ除幕されました。
「しほばらの鳥居戸山に出る月は 泣き虫山もおなじなるらん」
建物の北側の箒川沿いにはハイキングコースがあり、森林浴を楽しむことができます。
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