設楽原は長篠城址から西に4km程度行ったところにあります。
戦国時代ここで、織田・徳川軍と武田軍の戦闘が行われ、織田・徳川軍の鉄砲隊の導入により武田軍が壊滅的な打撃を受け、甲斐に撤退しました。
三方ヶ原の合戦・元亀3年(1572)から3年後の天正3年 (1575) 徳川にとっては宿敵武田を始めて打ち破った戦いとなります。
目次
1 設楽原歴史資料館
設楽原歴史資料館は、戦国時代 織田・徳川連合軍 対 武田の騎馬軍 が戦った愛知県の設楽原の小高い丘の上にあります。
本戦ではこの場所は武田軍の前線に近い場所です。
駐車場から建物を見た所。長篠のぼり祭りの最中で入口付近には沢山ののぼりが立っています。
名物?馬防柵も庭に展示されていました。
入口には地元(といっても江戸詰めの旗本で江戸生まれ、江戸育ちのようですが)の名士、岩瀬肥後守忠震公の像
岩瀬肥後守忠震公の像
忠震は江戸麻布我善坊の旗本設楽家に生れ、岩瀬家へ養子。
昌平黌に学び出仕して徽典館学頭を務む。
老中阿部正弘に抜擢されて目付となり、尊皇攘夷、風雲急を告げる幕末に於いて開国論を主唱し、外国奉行として米・蘭・露・英・佛との安政の修好通商条約締結に盡痺す。
乾坤一擲、開国の偉業は実現するも、井伊大老に忌避されて濹東に閉門蟄居、可惜四十三才にして前途有為の一生を了えられた。
今日、設楽・岩瀬両家とも継嗣なく、忠震公の偉業を広布顯彰すべく世襲代官瀧川家第三十四代滝川一興発願と寄付により、斯界の巨匠卒寿翁中村晋也氏に懇望。
その制作になる忠震公立像が遂に完成。
郷党諸士の協得て、設楽家の陣屋があった、この竹廣の故地に建立されることゝなった。
忠震公と第二十九代瀧川一清との水魚の交りが偲ばれる。
平成二十八年四月吉日
第二代忠震会会長 滝川一興 謹誌
題字揮毫 新城市長 穂積亮次
制作 日本芸術院会員 中村晋也
入口の写真スポットです。え! これが家康公なの?
館内の展示は下の写真の通りです。
1Fに全ての展示品があります。
1.1 設楽ヶ原の戦いコーナー
戦地は、長篠城から西へ4kmの場所です。
川を挟んで、織田・徳川軍と武田軍が対峙しています。
長篠城の攻防
野田城を落とした武田軍が、 甲州に去ると、 家康は奥三河の領土回復をめざして動き出しました。
天正元年(1573) 9月、長篠城を奪回。
同3年2月に武田氏を離れた奥平信昌を城主とし、 城の修築にあたらせました。
武田勝頼は1万5千人の軍を率いて、三河に侵入し、5月1日、長篠城を取り囲みました。
5月6日 武田軍、 吉田城を攻撃。
5月8日 武田軍、 長篠城にもどる。
5月13日 瓢郭(ふくべくるわ)や弾正郭を落とす。
14日深夜、 鳥居強右衛門と鈴木金七郎の二人が使者として長篠城を脱出。
岡崎城で信昌の父奥平定能らと会い、城内の様子を伝えます。
強右衛門は城に戻る直前に武田軍に捕らえられ、 城兵に連合軍の「大軍来る 」 を叫んだ後、 篠場野で磔となり殺されました。
鉄炮玉はどこから来たか
設楽原や長篠城から30個ほどの鉄炮玉が発見されています。
しかし、使われた鉄炮の数と比べるととても少ない数ともいえます。
それはなぜでしょう。
近年、科学的な分析によって、 鉄炮玉の材料となった鉛の産出地が分かってきました。
日本だけでなく、中国や東南アジアからもたらされた鉛を用いて鉄炮玉が作られていたのです。
鉄炮全盛の戦国時代において、 鉄炮玉を作るための鉛は輸入に頼らなくてはならないほど貴重品だったのです。
このため、戦いのあと回収された可能性も考えられています。
また、最新の分析結果により市内にある鉱山から産出した鉛を設楽原の決戦で使用した鉄炮玉の原料として用いられていることも判明しました。
信長の岐阜発進
武田軍が激しく長篠城を攻撃していた5月13日、織田信長は長篠城を救援するため、 岐阜を出発しました。
信長は出陣するにあたり、 2つの準備を行っています。
1つは、たくさんの鉄炮と撃ち手を用意するよう細川藤孝、筒井順慶など京にいる家臣に命令しました。
もう1つは、設楽原に馬防柵をつくるために、大量の丸太と縄を用意させ、 足軽に柵木1本、 縄1把を持たせました。
途中、 熱田神宮で戦勝祈願を行い、 14日夕刻には岡崎に到着し、 徳川軍と合流しています。
3万8千人にも上る連合軍は、16日 牛久保城、 17日 野田城と進み、18日設楽原に到着しました。
馬防柵の構築
設楽原に着いた連合軍は、 それ以上の進軍をやめ、 連吾川の西に陣をおきました。
そして、連吾川沿いのおよそ2kmにわたって、馬防柵を作りはじめました。
連吾川の上流は雁峯山のふもとに続き、 下流は深い谷となり、人馬が越えることは難しく、 両軍が向き合った中流は、まるで沼のような水田が開け、 大軍が走り抜けること
のできる場所は限られていました。
この川沿いに馬防柵を作ることによって、一つの大きな城を造ったと考えられます。川が堀となり、 柵は塀の役割を果たしています。
柵の内側には、 戦いの隊形を保ったままの大部隊を置くことができ、 守りながら攻めるという戦い方を生かすことができます。
連合軍はこうした柵を幾重にも作ったといわれています。
武田軍、瀧川を渡る
設楽原に姿を現した織田・徳川連合軍の大軍を前にして、 19日、 武田軍は医王寺の本陣で軍議を開きました。
「設楽原へ進軍すべきか、退却すべきか、このまま動くべきでないか」
勝頼は進撃すべきと主張し、馬場や内藤など老将は慎重であったと言われていますが、 実際にはよく分かっていません。
激しい議論の末、 武田軍は連合軍と戦うことを決め、 一部の軍勢を長篠城や鳶ケ巣山などに残し、 19日から20日にかけて、瀧川を渡り始めました。
連合軍と向き合う形で、 設楽原の東の台地に布陣を終えた馬場、内藤、 山県、 土屋の諸将は、 決戦の前夜に清井田で水杯を交わしたと伝えられています。
馬防柵と火縄銃
武田軍と織田・徳川連合軍の決戦の火ぶたが切られました。
この決戦における最初の激突は、 馬防柵の作られた南端で起こりました。
武田方の山県昌景が率いる赤備えの騎馬武者が、押し太鼓とともに一斉に柵を襲いかかります。
これに対して、 徳川方の大久保隊による足軽鉄炮が火縄銃を撃ちかけます。
武田軍が馬防柵に近づくと、 連合軍の足軽隊は柵内に逃げ込み、入れ代わりに柵内から武田方に向かって火縄銃を放ちます。
その火縄銃は武田軍が馬防柵にたどりつかせまいとするかのように次から次へと断続的に放たれました。
武田軍が後退すると、 足軽隊が再び柵外に出て攻撃を仕掛け、武田軍が近づくと銃弾を浴びせる・・・ そんな戦いがあちこちで繰り広げられました。
激戦、三重の柵の攻防
連吾川沿いに立ちはだかる馬防柵を前にして、 武田軍は右翼の馬場隊が要となる丸山を抑え、後に続く真田隊・土屋隊が馬防柵の第一柵を突破しました。
中央では、 内藤隊や原隊が猛攻を繰り返していました。
一方、 左翼の山県、 小幡隊は大久保隊の奮戦により柵を突破することができず、 次第に弾正山前へと戦いの場所を移していきました。
弾正山の前では、 山県隊の猛攻に続いて、 内藤隊が柵に迫り、第1、第2の柵を破り、 20人ほどが第3の柵までも越えて、 家康本陣へと突進しました。 しかし、本多忠勝らによって追い返され、 突破口を完全に開くことはできず、激戦の中で武田軍の将兵は次々に倒れていきました。
設楽原から甲州へ
馬防柵で守りながら、 鉄炮で攻める連合軍に対し、武田軍は馬防柵に決定的な突破口を開くことができないまま、山県昌景、 内藤昌豊、 真田信綱といった武田軍の主力となっていた武将が次々に討死していきました。
設楽原から離れること2km。 瀧川沿いの小高い所に馬場信春の碑があります。 遠ざかる勝頼主従を見届けた信房が殿の務めを果たし、 62歳の最期を遂げた地です。
一説には武田方は1万人を越える戦死者を出したとも伝えられ、その大半は退却戦の中で亡くなったともいわれています。
勝頼は戦地本陣から、 雁峯山伝いに甲州をめざして、落ち延びていきました。
途中、 田峯城に入れず、 その後、高坂弾正の迎えを受け、 24日、甲府にもどりました。
設楽原から 「しんしろ」 へ
武田軍を追いかける連合軍、信長と家康は深追いすることを許しませんでした。
勢いだけで追撃することの難しさと、武田軍の激しい抵抗があったものと考えられています。 - 戦いは終りました。
横たわる多くの屍は一か所に集められて塚となり、 信長によって「信玄塚」と名付けられました。
「武田の時代」の終わりを宣言し、 「信長の時代」 を告げる歴史の分岐点となりました。
また、 長篠城を守り通した城主奥平信昌は、 その功労を信長、家康から賞されました。
翌天正4年(1576) 家康の長女亀姫を迎えた信昌は、長篠城に代わる新しい城を豊川の中流に築きました。
「新城-しんしろ」の始まりです。
浮世絵『天目山勝頼討死之図』
天正10年3月11日、 甲斐国天目山で織田軍に攻められ、最期を遂げた。
付き従う家臣はわずかであった。
当館所蔵
1.2 火縄銃の展示
武田の旗印
新城ののぼり祭りでは、敵方である武田ののぼりが、いたるところに建っていました。
1.3 家康とその家臣達
本田忠勝はかっこいい。
1.4 どうする家康Q&A
大河にあわせて、設楽原の戦い関連クイズが何問も展示されていました。
なかなか勉強になります。
1.5 屋上
屋上からは設楽原の全景と各軍の位置関係が分かるよう案内があります。
徳川軍の陣地方面
織田軍の陣地方面
長篠城方面
そして、戦闘の舞台となった、設楽原の模型が造られていました。
が、よく分かりませんでした。
2. 設楽原古戦場
2.1 設楽原の「長篠・設楽原合戦屏風絵図」
設楽原の「長篠・設楽原合戦屏風絵図」
この「長篠・設楽原合戦屏風絵図」は、犬山城白帝文庫所蔵の「長篠合戦図屏風」を基に作成をした。
設楽原で行われた決戦の様子を描いた「長篠合戦図屏風」の作者(絵師)はこの絵を描くために設楽原を実際に訪れていたであろうと思えるほど、しっかりとこの周辺の地形を再現している。
中央を流れる連吾川の両側には信玄台地(山県陣地・内藤陣地等) と弾正山台地(徳川陣地・織田陣地)がある。
その弾正山台地は南端の家康本陣地のあたりから南は平地になっている。
さらに、弾正山台地の西側には大宮川が描かれ、その上流にはかんぼう山の山並みが据えられ、そのふもとに信長や秀吉が陣地を置いている。
信玄台地の南も平地で徳川方と武田の山県隊が激しい攻防を繰り広げていた。
連吾川上流には激戦地の一つである丸山(真田昌輝・信綱陣地付近)も描かれている。
再現の馬防柵はこの絵の中央あたりで、ちょうど織田軍と徳川軍の境に位置している。
令和三年(二〇二)年秋 馬防柵を愛する会
令和三(二〇二)年度 新城市地域活動交付金事業
(現地の写真が分かりづらかったためWikipediaの絵を拝借しています。)
2.2 馬防柵
馬防柵
天正三年(一五七五) 「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵を再現したものである。
連吾川に向かって右側の下手に徳川軍のものを、左側の上手に織田軍のものを、区別して構築してみた。
両者の様式には、攻口(出入り口)の設け方に違いが認められる。
当時、天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め、その内側にあって鉄砲でねらい撃ちにするために造られたもので、延長二軒余に及んでいた。
決戦の正面となったこの連吾川沿いに三重の柵を構え、背後の弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、さらに一重の柵を設けて万一に備えていた。
織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、逆に武田軍にとっては、勝利を阻む痛恨のしがらみとなったのである。
設楽原をまもる会
2.3 織田軍の馬防柵
構造が簡単で、正面からは馬は防げますが、斜めからは馬でも入り込めそうです。
2.4 徳川軍の馬防柵
柵を出入りする動線が直角なので、馬では通り抜けられません。
そのほかにも織田信長戰地本陣跡は以下のブログで報告しています。
新東名・長篠設楽SAから長篠の戦いの織田信長戰地本陣跡に立ち寄る
また、設楽原の戦い関連のブログはこちら