史跡

高輪築堤(たかなわちくてい)跡 ・地味に展示

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高輪築堤(たかなわちくてい)は、1872(明治5)年に日本初の鉄道が新橋・横浜間で開業した際、東京湾の浅瀬に石垣を組んで築かれた約2.7kmの鉄道用堤防です。

 

当時、兵部省が軍事上の理由から陸地への鉄道敷設に反対したため、大隈重信らの主導により、海上に線路を通すという画期的な工法が採用されました。石垣の構造には、江戸時代の台場(砲台)造成や石垣建築の伝統的な技術が活かされています。

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明治後期の埋め立て工事に伴い長く地中に埋もれていましたが、2019年、高輪ゲートウェイ駅周辺の再開発に際して約1kmにわたり遺構が発見されました。文明開化の象徴であると同時に、日本独自の伝統技術と西洋の近代技術が融合した、世界の交通史・土木史的にも極めて貴重な遺構です。

高輪のビル西屋外に当時の築堤跡に沿って歴史展示ができましたので見て来ました。

 

1       TAKANAWA LINK SPAC

「TAKANAWA LINK SCAPE とは」
TAKANAWA LINK SCAPE へようこそ!
スマホをかざして、海の上を走っていた機関車や当時の人々の暮らしを、 現在の風景と重ねて体験しましょう。
150年以上前につくられた高輪築堤に隠された歴史とは?
さあ、時代を超えた旅へ出発進行!

ロシアの蒸気機関車模型を目にした佐賀藩の 中村奇輔が、日本初の蒸気機関車模型を製作。 藩校・弘道館にて大隈重信が見学しました。

こぼれ話

江戸時代後半~明治時代 の平均身長は、今より15cmも低かった!?

記録によると、当時の人の平均身長は 男性が155cm~158cm、 女性の場合は 143cm~146cmでした。 現在の日本人の 平均身長と比べて、 15cmほど低くなって います。 今より栄養状態が悪かったこと や、正座中心の生活が一般的だったこ が影響していると言われています。

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こぼれ話

「時間感覚」を大きく変えた鉄道

現在のように誰もが「○時○分」 と言うようにな ったのは、鉄道が大きなきっかけでした。それ まで日本では日の出と日の入りを大きな区切り とし、時間を約30分ずつ区切って数えていまし た。 しかし、きちんと鉄道を走らせるには正確 な時刻が必要です。 そこで、 西洋の定時法が取 り入れられ、分刻みの時刻表が作られました。

こぼれ話

外国人技師

(お雇い外国人)リル

鉄道建設を決めた当時、 鉄道を建設・運営す る技術等は日本にはなく、イギリスをはじめと する西欧各国の技術者に頼りました。 1870 (明 治3)年に来日したエドモンド・モレルに始ま り、鉄道関連のお雇い外国人は1874 (同7)年 には115名に達し、資材・ 建設・運営の各分野 で主導的役割を担いました。

 

1870年 (明治3年) イギリス人の技師であるエドモンド・モレルが鉄道建設の建築師長に 着任し、本格的に工事がはじまりました。 西欧の鉄道技術を中心に、一部に日本在来の土木 技術を融合させて工事は進められました。 日本の実情にも合わせて、レールの幅 (現在も使われる 1,067mm)や国産材を使った枕木の採用なども決められました。

高輪築堤工事は、八ッ山下から高輪大木戸までと高輪大木戸から元大村藩邸までの2つの エ区に分けられ、 南側工区は1870年 (明治3年) 10月に、 北側工区は1871年(明治4年) 6月にそれぞれ着工しました。 1872年(明治5年)に入ると工事列車が築堤の工区で運転 されるようになり、工事は一層活発に行われました。 南側工区の工事は比較的順調に進行し 1872年(明治5年)4月中に完成しましたが、北側工区では風浪のためしばしば築堤が崩壊し、 ようやく同年9月に、長さおよそ 1,460間(2,655m) 、 平均幅3間半 (6.4m) の全区間が 完成しました。

広場内に積まれた石は、 高輪築堤の発掘調査によりこの地で発見されたものを活用しています。 また、 広場内に敷設されたレールは、 開業期の鉄道が走ったライン上に埋め込んでいます。

外国人技術者とは?

幕末から明治にかけて、 明治政府が日本を発展させようと西欧の先進技術や学問・制度を 学ぶべく多くの外国人を雇用しました。 鉄道建設を決めた当時、 鉄道を建設・運営する技術等は 日本にはなく、イギリスをはじめとする西欧各国の技術者に頼りました。 1870年(明治3年) に 来日したエドモンド・モレルに始まり、 鉄道関連の外国人技術者 労働者は 1874年 (明治 7年)には115名に達し、 資材・建設・運営の各分野で主導的役割を担いました。 支払う給与も 膨大な額に上るため、日本人技術者の育成・自立により次第に数を減らし、 明治10年代後半には 20名以下となっていました。

エドモンド・モレル Edmund Morel

イギリス人。 オーストラリア鉄道などで技師として 勤めた後の1870年 (明治3年)、鉄道建設計画中の日本 政府に建築技師として招聘された、 最初の外国人 技術者です。鉄道工事指導にあたる傍ら、国内で調達 できる資材を用いて建設費の節約や工期短縮を図ったり日本人技師へ技術指導を行ったり、日本の 鉄道発展に大きく寄与しました。 しかし残念ながら、 エドモンド・モレルは日本の鉄道開業を見ることなく、 肺結核により1871年(明治4年)に 死去しました。 横浜外国人墓地に埋葬され、墓は鉄道記念物に指定されています。

こぼれ話

江戸の玄関口だった高輪ゲートウェイ
駅名の由来となった「高輪大木戸」は、江戸の玄関口として設置された木戸のあった場所で、その石造構造物が「高輪大木戸跡」として現存しています。

有名な赤穂浪士ゆかりの泉岳寺、幕末に黒船を迎撃するために建設された台場、高輪築堤を走る鉄道など、江戸から明治初頭にかけての歴史を体感することができるエリアです。

「日本初の鉄道開業 | 新橋~横浜間の約29km

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1307413

1872年(明治5年) 日本初の鉄道が開業しました。 日本の近代化、 産業化を進める明治政府は、 近代国家建設には鉄道の導入は不可欠であるとして、 大隈重信、 伊藤博文らが中心と なって鉄道建設の計画を進めます。 そして、 1869年 (明治2年) 11月に我が国に鉄道を建設することが正式に決定されると工事は翌年3月から着工し、 1872年(明治5年) 9月の芝浦・ 田町間の高輪築堤を最後に全線が完成しました。 着工からわずか2年半で開業を成し遂げました。

鉄道開業にあたって開催された式典は新橋と横浜の両駅にて開催され、 大変な賑わいとなりました。 その様子は錦絵や一部 写真にも残っており、 この日、 式典に参列した人、 見物に来た人の 服装は、 和装・洋装と様々であったことがわかります。

開業当初、 「新橋駅」 からこの高輪エリアを通過して、 「品川駅」、 「川崎駅」、「鶴見駅」、「神奈川駅」、 「横浜駅」までの約29km間を、 1日9往復の旅客列車が運行していました。 当時は片道で約50分かかりました。

再び姿を現した

第7橋梁橋台部

発掘された「第7橋梁橋台部」は北橋台と南橋台の2基で構成されていました。開業当初は、錦絵 にも描かれているようにその上部に木製の橋梁が あったことがわかっています。

 

高輪築堤とは?

1872(明治5)年、日本で初めての鉄道が開業しました。 路線は新橋から横浜までで、2mの長さでした。このうち、 高輪海岸沿いの海上に鉄道を走らせるためにつくられた のが「高輪築堤」です。

本芝~八ツ山下までの約27mの区間に、海中に石積みの 堤である「築堤」を築いてその上に線路を敷くことにな りました。当時の人々は、海の上を走る機関車に驚き、鉄 道は文明開化の象徴として錦絵に描かれました。

はじまりの機関車

鉄道が開業する際、機関車はイギリスから輸入さ れました。 最初に導入されたのは、10両のイギリ ス製の蒸気機関車で、客車も同じくイギリス製で した。その中で最初に完成した1号機関車は、後 に国の重要文化財として指定され、現在は大宮の 鉄道博物館で見ることができます。当時輸入され 10両のうち、現存するのは3両だけです。

こぼれ話

車両1000両を 収容できる巨大基地

高輪築堤の東側にある芝浦.港南地区。

元は海岸沿いの地 区でしたが、鉄道輸送が盛んになるにつれて施設を拡充するために明治から昭和にかけて埋め立てや整備が進められ、車両1000両を収容できる巨大車両基地となりました。

2020年には高輪ゲートウヱイ駅が開業し、2025年からは未 来に向けた新しいエリアとして生まれ変わろうとしています。

こぼれ話

東京駅開業

赤レンガを用いた東京駅は、近代日本を象徴する建

築です。 建築家・辰野金吾の代表作で、1914年 の完成まで建設に6年半を要しました。

 

山陽電鉄本線(西代~山陽姫路)が全線開通したのは1923年(大正12年)8月19日です。

高輪築堤をとりまく昔と今

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1302529

ここはかつての宿場、東海道の品川宿に近い江戸の入り口。 江戸時代、幕府により 「東海道」 が拡充・整備され交通の要衝となりました。 鉄 道建設にあたっては、元大村藩邸 (現在の芝浦1丁目8・9番地及び芝4丁目18番地付近) から元薩摩藩邸 (現在の田町駅付近) を経て八ッ山下までは、高輪海岸沿いの海中に堤防を築き、線路を敷きました。 築堤の上を鉄道が走っていた当時は、この近隣には海が広がり、 遠くには品川 台場やこの地を訪れる和船、 外国船を見ることができ、当時の人々は現在とは違った風景を眺めていたことでしょう。

鉄道が開業した明治から現在にいたるまでの高輪近郊の地図を見ると、東京の沿岸 がどのように時代とともに発展し、変化したかをうかがい知ることができます。

1872年(明治5年)に開業した日本初の鉄道のうち、この地域の約2.7kmの区間が 「高輪築堤」 と呼ばれ、海の上に鉄道が走り ました。 沖にはペリー来航に危機を感じた 江戸幕府の築造した台場 (砲台) があり、 海を望む景勝地でもあった高輪は多くの 人々で賑わう場所でした。 明治から昭和 (戦前)にかけて行われた沿岸の埋立てに より陸地化したこの土地は、鉄道需要の 増加に伴い最盛期には1,000両もの車両 を収容する電車・客車・機関車の総合車両基地として整備され、日本の鉄道を支えてきました。その後、輸送体系の変化に合わせて、 2009年 (平成21年) より車両基地の再編が進められ、この鉄道発祥の地に新たに生まれたエリアに「高輪ゲートウェイ駅」を核とした「TAKANAWA GATEWAY CITY」が誕生しました。

こぼれ話

子どもたちに大人気 特急電車こだま
この時代、色やスタイルが印象的な車体の電車がたくさん登場しています。

その代表が東京-大阪間を走る特急電車 「こだま」でした。

流線型をイメージしたボディ、クリーム色の車体にビビッドで赤のスピード感あふれるカラーリングで、絵本の表紙を飾るほど大人気となりました。

2       かつての軌道のレプリカ

このレールは明治時代に日本で初めて鉄道が走った線路と同じ位置に敷かれています。

3       築堤の石垣

石垣は新しくできた「MoN Takanawa」の4階の月見テラスの飛び石にも使われています。

水盤に写る月を見て楽しむ、という趣向でしょうか?

3.1      港区ゆかしの杜で展示されている築堤の石垣

高輪築堤の石材

開業期の高輪築堤は、 約30℃の勾配で積まれた海側の石垣と、 ほぼ直立する山側の石垣で盛土を押さえていた。海側石垣の最下段には、 長方形に加工された凝灰岩の根石 (①) を並べ、 その上には控えを打ち欠いた安山岩の間知石 (②) 等を積む。 山側石垣(③)には安山岩製の間知石が用いられている。 文献によると、 石材の一部には東海道の護岸石垣や使われなかった台場の石垣等も用いられたようである。

 

 

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