知覧は薩摩藩の一所持(一門四家 重冨、加治木、垂水、今和泉に次ぐ家格)である分家の島津氏の知行地です。
元々は佐多姓でしたが、藩主・島津光久の五男で、佐多家の養子となり16代の当主となった久達(ひさみち)の時に島津姓の使用が許されました。
今回訪れた知覧武家屋敷庭園は江戸時代の武家屋敷の街並みをそのままの状態に近い形で保存されています。
来訪の一週間前に、無料のボランティアガイドさんをお願いしましたので、細かなところまで説明いただけました。
街道の往復1時間程度の見学でしたが、手入れの行き届いた公園を歩いた感覚で気持ちの良いものでした。
街道の両サイドは見学できる庭園を持った屋敷もありますが、実際に住居されている方々もいます。
普段の生活をしながら、観光客を受け入れるのは大変なことですが、地区全体で昔ながらの状態に美しく保存されており、住民の皆さんが日ごろから丁寧に管理されているのが分かりました。
公開されている各屋敷の名称は昭和56年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたときの当主の名前になっているとのことでした。
目次
1 森重堅氏庭園
ここの庭だけが、武家屋敷庭園の中で池泉式で池に水が張ってあり、鯉が泳いでいました。
管理事務所があり、ここで入園料を支払います。
大河ドラマ『西郷どん』で赤山靱負(ゆきえ)[鹿児島県出身の沢村一樹]が切腹したロケ場所がこの庭だということです。赤山靱負は島津斉彬の襲封を願う一派の中心的人物でしたが、島津久光を藩主にしようとする一派が斉彬派の粛清を狙ったいわゆるお由羅騒動で切腹を命ぜられました。
2 旧高城家住宅
屋敷の入口にタノカンサァ(田の神さま)と称する石像があります。鹿児島藩島津氏領にのみが分布する石像です。五穀豊穣の神様です。
ハート形の手水鉢は、魔除け・招福・火事除けなどの意味を持つそうです。
これ西洋の文化ではなく、日本伝統の模様で猪目(いのめ イノシシの目)と呼ばれているようです。語源は猪目懸魚(いのめげぎょ)から来ているようです。
詳しくは以下に解説があります。
https://kotobank.jp/word/%E7%8C%AA%E7%9B%AE%E6%87%B8%E9%AD%9A-1270653
「ハートを見つけるスタンプラリー」のときに、ビー玉を入れ、目立つようにしたとのことでした。
まずは、説明書きにも書かれていた「おとこ玄関」
こちらが「おとこ玄関」の右隣にある「おんな玄関」です。
中へ入ってしまえば一緒なので、わざわざ別々の玄関を作るのは無駄って言えば無駄なのですが、それは封建時代の事、普段から身分の差異を肌身を持って知らしめるように造作したのでしょう。
3 佐多直忠氏庭園
屋敷の門は正面に壁(屏風岩)があって直進できないようになっています。
沖縄にもヒンプンと呼ばれる同様の壁がある住宅がありますが、知覧の港が江戸時代に琉球貿易の拠点であったことから、武家屋敷も琉球の影響を多く受けているようです。
家の中を見えないようにする目隠しの役割もありますが、後で説明する「石敢当」(せっかんとう)と同じように魔除けの意味も込められています。
魔物は角を曲がるのが苦手なため、この壁で直進して家の中に入って来るのを防ぐのだそうです。
正面の壁を左手に折れると、屋敷と枯山水の庭があります。
庭は遠くにある山を比叡山に見立てて、目前の庭に溶け込ませることによって全体として調和の取れた風景となっています。
4 佐多民子氏庭園
河原にある水で穿った石を集めて、あたかも流れる水が想像できるように枯山水を造園しています。
5 佐多美舟氏庭園
ここも見事な庭園です
6 二ッ家
住宅用のオモテと台所のあるナカエの建物を一体にした知覧独特の造りです。
旧高城家住宅も同じ作りになっていました。
7 石敢当(せっかんとう)
丁字路の突き当り等に設けられ、やって来た魔物を追い払います。元々は中国伝来の風習です。
8 平山亮一氏庭園
ここの庭は枯山水ではなく、サツキで埋め尽くされています。春には、咲き誇るサツキで綺麗な庭になることでしょう。
この長い手水鉢は、槍や刀を洗うための鉢とのことです。
9 平山克己氏庭園
入口の壁は生垣を使っています。
10 西郷恵一郎氏庭園
庭園の石の中には、鶴と亀に見立てた石があります。分かりますか?
あくまでも見立てで、石は自然の形状です。
11 本馬場通り
武家屋敷を貫く通りの名前ですが、空堀の役目も兼ねており、屋敷は通りから一段高い所に建築されています。
攻めてきた敵を、矢引のある高所から迎え撃つ造りとなっています。
直線に見える通りも少し曲げられており、侵入してくる敵を待ち伏せする兵が見えない死角をつくることが可能です。
これは桝形です。右手の石垣は切り石、左の石垣は玉石です。切り石の石垣の方が家格が高いことを示します。
12 所感
以上、ガイドさんと一緒に1時間あまり見学して歩きました。子供の頃住んでいた田舎にもお城の近くに武家屋敷がありましたが、屋敷の囲いは、ここの石垣とは違い土塁でした。
こうしてみると、子供の頃見た近所の武家屋敷より遙かに豊かな武家の一団がこの地に住んでいたことになります。
観光で訪れる分には美しく管理された街並みは、時代を超え江戸時代の武家の営みを想像することができる素晴らしい施設ですが、住む人が老齢で亡くなったり、都会に移住したりしたため、庭園内の家屋売りに出しても、ここで実際に生活するとなると大変らしく、最終的には市に寄付することになった物件もあるそうです。
施設の維持管理と言う点ではご苦労されている様子が伺われます。
当事者ではないので勝手な言い分ですが、この素晴らしい施設は、荒廃させることなく後世に残していって欲しいです。
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