知覧飛行場は、日本陸軍の軍学校のひとつで、福岡県三井郡大刀洗村に本部のある大刀洗陸軍飛行学校(たちあらいりくぐんひこうがっこう)の分教所として1941年(昭和16年)12月に完成しました。
当初は10代の男子志願者から選抜された少年飛行兵や15歳以上20歳未満の男子志願者から選抜された陸軍特别幹部候補生の教育・訓練を行うことが目的とされていましたが、戦争末期となる1944年(昭和19年)夏以降、陸軍航空隊の戦術が艦船への体当たりを柱とする特攻を主軸とするものに転換され特攻隊の前線基地となりました。
少年飛行兵については、約50倍という難関を突破した優秀な少年達であったという記録があります。そうした若い操縦士達が特攻で、南海に消えていった事は残念でなりません。
目次
知覧特攻平和会館
飛行場自体は、戦後、米軍によって撤去されましたが、その記憶を止め置くために、ここ知覧特攻平和会館があります。
会館内は海底から引き揚げた零戦以外は撮影禁止のため展示物をここに写真として掲載することはできませんが、会館外観と野外の展示物は写真に収めてきました。
一式戦闘機「隼」(レプリカ)
2007年に公開された映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」で撮影に使用された陸軍の主力戦闘機「隼」です。
特攻勇士の像と航空自衛隊練習機T-3
ゼロ戦
日本海軍の誇るゼロ式戦闘機です。
鹿児島県川内市手打港沖合に沈んでいたものを昭和55年に引き上げました。
損傷が激しく機体の前方部分だけが残っています。
海軍の飛行場は鹿児島の東側にある大隅半島に神風特別攻撃隊の出撃基地であった 鹿屋航空基地(かのやこうくうきち)があります。
映画「永遠の0」の主人公の宮部久蔵はそちらから飛び立ちました。
復元された三角兵舎
三角兵舎は特攻隊員の宿舎でした。松林の地面を掘り、屋根だけが地面の上に出るようにし、更にその屋根を偽装することによって、敵の攻撃の的にならないようにしました。
米軍も特攻機によって空母や駆逐艦に被害が出ないよう、前線基地の機体を破壊しに来ていました。
出撃前の隊員たちが窓もない暗いこの小屋で、最後の夜を過ごしました。
志願してという言葉も聞きますが、軍隊にあってはほぼ命令によって敵艦隊に突っ込む任務が下されたことに対して、その心情は如何ばかりだったでしょう。
知覧飛行場を飛び立った飛行機はまず、薩摩富士と呼ばれる開聞岳を目指したそうです。
薩摩半島の先端付近に孤高にそびえたつ美しい山です。
特攻の飛行士は、この山を越えると、戦地に赴く覚悟を決めたといわれます。
過去の夥しい犠牲の上に現在の平和があることに感謝します。
軍部の暴走によって多くの若者が命を落としていった⼤戦。
江⼾から昭和の時代へと続く近代史の中で⼈の価値観は⼤きく変わって来たけれど⽟砕思考に関しては、戦国時代、命を賭して国を守る思考を引きずっているな、と感じました。
今こうして過去を振り返ると軍幹部は何てつまらんことを、と思いますが、その時代の価値観がそうであったのであれば必然的に出てきた作戦だったのかも知れません。
過去を教訓にして⼆度と間違いを犯さないよう未来を作っていくことが現代に生きる我々の使命だと感じました。
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