史跡

「尾張名古屋は城で持つ」の名古屋城 本丸御殿

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名古屋城全体のブログは書きましたが、平成30年6月 に完成した本丸御殿については内容が盛りだくさんなためここで詳細を報告しようと思います。

本丸御殿以外のブログは「「尾張名古屋は城で持つ」の名古屋城

 

1        本丸表二之門

名古屋城公園の中で本丸の入口がこの本丸表二之門です。

本丸表二之門(ほんまるおもてにのもん)

古名は南二之門。本丸大手の外門で、内門である表一之門とともに枡形を形成していた。本瓦葺の高麗門(こうらいもん)で、軒回りは漆喰塗り込めとし、柱や扉に金具を打ち付けている。現存する数少ない名古屋城創建時の建造物である。

 

表二之門をくぐると一之門があったのですが、残念ながら戦争で焼失しました。

 

2        本丸表一之門跡

本丸表一之門跡

本丸大手 (表門)の東側の石垣をまたぐように, 表一之門 (櫓門)が建てられていました。

慶長17年 (1612) 頃の建築と見られます。 北側と西側の石垣上には, 多聞櫓 (長屋状の櫓)が隙間なく建てられていました。

南側の表二之門から侵入した敵を,櫓門と多聞櫓の三方向から矢で攻撃する構造でした。

このような四角形の広場をもった城の出入口を, 枡形虎口といいます。

多聞櫓は明治24年(1891) の濃尾地震で大破し, 取り壊されたと見られます。

表一之門は昭和20年 (1945) の空襲で焼失しました。

 

一之門があったあたりです。

名古屋城本丸御殿は、尾張藩主の住居かつ藩の政庁として慶長20年(1615年 )、 徳川家康の命によって建てられました。

昭和5年 には、天守閣とともに城郭として初めて国宝に指定され、屈指の名城として知られていましたが、昭和20年の空襲により建物のすべてを焼失。

復元が待ち望まれた本丸御殿は、平成21年から復元工事が始まり、平成30年6月 に完成公開を迎えました。

本丸御殿は、日本を代表する近世書院造の建造物で、総面積310011i、13棟の建物で構成されます。

優美な外観とともに、室内は花鳥風月などを画材とした障壁画や飾金具などで絢爛豪華に飾られ、建築・絵画・美術工芸史において高く評価されています。

復元にあたっては、江戸時代の文献や昭和戦前期の古写真、実測図など豊富な資料をもとに、旧来の工法や材料を採用し、史実に忠実な復元を実現しました。

400年 の時をこえて、築城当時のままによみがえった美しい御殿建築を、心ゆくまでお楽しみください

 

3        車寄(くるまよせ)

 

ここが玄関なのですが、入場は右へ回って中之口部屋横出入口を使います。

車寄(くるまよせ)

車寄は,将軍など正規の来客だけが上がる, 本丸御殿への正式な入口です。唐破風屋根をいただく堂々たる外観で, 本丸御殿の中でも最も太い柱が使われています。

 

入場の列に並んでいる時、北側から撮影した建物。

 

4        外観

いよいよ入場です。

本丸御殿の復元手法

Method of the Hommaru Palace Restoration

本丸御殿の復元にあたっては, 主要な木材に木曽桧を使用するとともに、継手・仕口により木材を組み立てる伝統工法を採用しています。

また障壁画についても, 狩野派の絵師たちが用いた技法や素材を分析し, 復元模写により当初の色彩を再現しています。

復元された建物と, 色鮮やかな障壁画, そして金色に輝く飾金具があいまって,400年前の壮大な空間がよみがえります。

本丸御殿の屋根について

本丸御殿の屋根は、木の薄い板を竹クギで止めて重ねた 「柿葺(こけらぶき)」という技法が用いられています。

柿は木の削りクズのことです。

新築した劇場で行われる初公演を「柿落とし」と言いますが、 こちらの言葉の方が有名です。

ヒノキの皮を用いる檜皮葺(ひわだぶき) とは異なります。

本丸御殿は、 古写真では瓦葺となっていますが、 これは享保13年(1728)に変更されたもので、 元々は柿葺きでした。

金閣や銀閣、 奈良 室生寺の金堂にもこの柿葺が用いられています。

模型を見ていただけば、 幾重にも重なる柿の様子がよくわかります。
勘違いされやすいのですが、 「こけら」と「かき」の字は違う漢字です。

「かき」は赤マルの場所がつながっていませんが、「こけら」 はつながっており、画数も1画少ないです。

 

5        中之口部屋

ここが下駄箱とかロッカーの部屋です。

中之口部屋

Nakanokuchibeya Hall

中之口部屋は、 本丸御殿の実質的な玄関で、 家老の詰所としても使われました。

内部は6つの部屋に区切られ、西側・南側・北側に入側 (廊下) がめぐっています。

 

6        玄関・大廊下

玄関・大廊下

Genkan, the entrance hall, and Oroka, the grand corridor

玄関は、正規の来客がまず通される建物で、 床や違棚が備えられていました。

周囲の壁や襖には勇猛な虎が描かれ、 客を驚かせました。

続く大廊下は、玄関と奥を結ぶ重要な通路で、 幅は3間 (約6メートル) に及びます。

加藤清正の虎退治とは関係ないでしょうが、虎の絵で一杯です。

 

7       表書院

 

表書院

Omote Shoin, the main hall

表書院は、江戸時代は広間と呼ばれ、 藩主と来客や家臣との公的な謁見に用いられました。 一番奥に位置する上段之間は、床や付書院を備えるとともに、床も一段高くしており、藩主の座として使われました。

 

本丸御殿復元の資料

References for the Restore

本丸御殿は、将軍のお成御殿(上洛殿) が増築されたあと将軍専用の建物となり, 江戸時代を通じて大切に管理されてきました。

明治維新後は国宝となり、精密な実測図面が作成されガラス乾板による写真も多数撮影されました。

図面や写真は、 第二次世界大戦中には疎開され焼失をまぬがれました。

これらの豊富な資料により, 今回の本丸御殿は, 外観・構造ともに細部まで史実に忠実な復元となっています。

 

 

8       対面所

対面所

Taimenjo (Reception Hall)

対面所は、藩主と身内や家臣との私的な対面や宴席に用いられました。

上段之間・次之間には、四季の風物や名所が、多くの人物とともに描かれています。

 

9       鷺之廊下

鷺之廊下

Saginoroka (Heron Corridor)

鷺之廊下は、対面所と上洛殿を結ぶための廊下で、寛永11年 (1634) に上洛殿と共に増築されました。

長押の上まで障壁画が描かれるのが寛永期の特徴です。

将軍や藩主はここを通り上洛殿へ向かいました。

 

10       上洛殿

上洛殿

Jorakuden, Shogun Accommodation Hall

上洛殿は、寛永11年 (1634) に三代将軍家光の上洛にあわせて増築された御成御殿です。 江戸時代は御書院・御白書院と呼ばれました。

本丸御殿で最も格式の高い建物であり、天井には板絵、部屋の境には極彩色の彫刻欄間がはめ込まれています。

 

右上の鶏は 諫鼓(かんこ・領主に対し諫言しようとする人民に打ち鳴らさせるために設けた鼓)に乗っていますね。

諫鼓の上に鳥が遊ぶ」諫鼓を用いる必要がないということで、領主が善政を施している例えられています。

 

 

11        梅之間

梅之間

Umenoma (Plum Room)

梅之間は、 将軍をもてなす役割に任じられた尾張上級家臣の控えの間として使われた部屋です。

上落殿と共に寛永11年 (1634) に増築されました。

 

12        上御膳所

上御膳所

Kamigozensho (Serving Preparation Room for Shogun Visitations)

上御台所で調理されて運ばれた料理を、 長囲炉裏で温め直し、 上段に揃えられた御膳・容器に盛りつけて、来訪した将軍のもとへ運びました。

長囲炉裏がある御膳場(別名「福 (富貴) 之間」) の天井には煙出しがあります。

 

 

13        下御膳所

下御膳所

Shimogozensho (Serving Preparation Room for Shogun Visitations)

下御膳所は、 長囲炉裏が備えられており、 料理の配膳や温め直しのための建物だと考えられています。

天井には煙出しがあります。

 

想像以上に立派な建物でした。

インバウンドも多く、観光の目玉です。

何時になるか分からないけれど、天守の建て替えも待ち遠しいです。

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