史跡 美術館/博物館

小樽運河沿いに立つ歴史的建造物を利用した博物館「運河館」

スポンサーリンク

小樽市総合博物館の分館である「運河館」は、小樽運河沿いに立つ歴史的建造物を利用した博物館です。

運河散策の途中に気軽に立ち寄ることができ、小樽がたどってきた歴史と自然の背景を、建物の雰囲気とともに深く学べる名スポットです。

 

建物は1893(明治26)年に建てられた「旧小樽倉庫」の南側半分を使用しており、レンガ造りの美しい外観や当時の風情を残す中庭が、かつて「北のウォール街」として栄えた小樽の繁栄ぶりを今に伝えています。

館内には2つの展示室があります。第1展示室では、小樽の歴史を支えたニシン漁の道具や、明治から大正期にかけて北前船がもたらした流通の歴史、そして運河建設の歩みが一目でわかる資料が並びます。第2展示室では、小樽周辺の豊かな自然環境や、そこに暮らす動植物の生態を詳しく紹介しています。

 

1       第1展示室

小樽の歴史を支えたニシン漁の道具や、明治から大正期にかけて北前船がもたらした流通の歴史、そして運河建設の歩みが一目でわかる資料が並びます。

久恵丸

縮尺 1/20

明治中期 (1890年頃)

小樽でも倉庫業を営んだ、 福井県河野村(現南越前町)出身の右近家が所有した船。

全長106尺 (約 32m) 800石積( 約 120t)の大きさであるが、 実際は1400石 (約 210t) の荷物を積むことが可能であった、といわれている。


小樽運河今昔

小樽運河は、年毎に増加していく小樽港の艀荷役作業の効率化のために 1914(大正3)年から1923(大正12)年までの間につくられました。

しかし、 1937(昭和12)年埠頭が完成し大型船が直接着岸できるようになると荷役方法もかわり、 主役の座から次第に降りていきました。

その後、 道路建設にともない 1983(昭和58)年から一部埋め立てられ、 現在の姿になります。

小樽倉庫

運河館として使用しているこの倉庫は、1893 (明治26)年に加賀橋立 (石川県加賀市) の北前船主であった西出孫左衛門と西谷庄八によって設立された 「小樽倉庫組」の木骨石造建築です。

壁は札幌と小樽の軟石 (凝灰岩)、 屋根は若狭 (福井県) の瓦、内部の柱は主に地元のマツ

材を使用した、 小樽の倉庫の典型ですが、 「ロ」字型の配置とシャチホコに特徴があります。

 

日本画家、 久保田金僊 (くばたきんせん1875~1954) 28歳、明治36(1903) 年の作品。

道北、 小平町鬼鹿にあった花田傳七の漁場の光景を描いたもの。

1904年にはセントルイス万博に出品され銀賞をうけている。

実際に現地で取材・観察し、 350 人以上の人物の作業光景や衣装に至るまで細かく描写している。近代北海道主要産業であったニシン漁の光景を描いた大作。

江戸時代前期から道南で盛んに行われていたニシン漁は、江戸時代後期に小樽周辺の漁場に中心が移ってきます。 ニシンの豊漁は明治時代になっても続き、 建網や機械も導入されました。 ニシン漁は巨万の富をもたらし、 小樽経済の基礎を築きます。

しかし、次第に漁獲高は減り、 1953(昭和28)年を最後に「ニシンの時代」は終わりをつげます。

 

春告魚(にしん)がやってきた

ニシンは3月下旬~4月上旬にかけて産卵のため日本海沿岸にやってきます。 豊漁の時は、海が盛り上がるくらいニシンが押し寄せたといいます。 この漁とともに春が訪れることから、 春告魚とも呼びます。

とれたニシンは生で食べるほかに、身欠きニシン、窯でゆでて角胴 (展示中) で絞り、しめ粕と油に分けられました。 しめ粕は肥料になり、これが東北、北陸、 中国、四国地方の木綿やみかん、 藍、 紅花の肥料となりました。

 

番屋建築(ばんやけんちく)

ニシンの豊漁は巨万の富をもたらしました。 最盛期には、3ヶ月間の出稼ぎで1年間分の生活費を稼ぐことができるといわれるほどでした。 ニシンの漁期に合わせて、 3~5月には

たくさんの漁夫が東北から北海道にやってきました。

経営者と多くの漁夫が宿泊できる番屋建築と呼ばれる建物がつくられました。 例えば、 小樽市内には祝津の旧白鳥家番屋や旧近江家番屋などがあります。 これらの巨大な建造物は、ニシン漁で多くの利益が得られたことを現在に伝えています。

 

特色・暮らし

番屋建築は、 煙出しを兼ねた天窓、 漁夫用と親方用の二つの玄関を備えた外観をしており、 板間は漁夫溜と呼ばれ、漁夫たちの食事や団らん、寝場所に使われました。 土間を挟んで反対側にある、 親方や大船頭の居住空間から漁夫溜が見えるように作られています。

番屋では、 親方と大船頭を中心にして、たくさんの漁夫が共同生活をしていました。 宿泊と食事は親方が負担し、 船頭の指揮のもとで仕事や生活を行いました。 生活上では、口論や争いの禁止といった規則もありました。

消防犬 「文公(ぶんこう)」

小樽は大火の多い町でした。 昭和 2 (1927)年に消防制度は本格的に整備され、 近代的な米国製の消防自動車も導入しました。 そのころ消防組 (現在の消防本部)に雑種犬が飼われていました。 それが 「文公」でした。

文公は消防車の出動の時になると、 一番で乗り込み、 火災現場に着くとやじ馬を追い払ったり、 ホースのもつれを直したりするなど大活躍をした、と伝えられています。 颯爽と消防車に乗り込む文公は、小樽市民のアイドルでした。

しかし、 昭和 13 (1938)年2月3日、老衰のため死去しました。 葬儀は消防組葬として行われ、 多くの市民が文公の好物であったキャラメルを供えました。

大坂 (大阪) から瀬戸内海、 日本海を経て蝦夷地の港を結んだ、西廻り航路の 「北前船 (弁財船)」は、物を運ぶだけではなく、 寄港地で売り買いをする 「買積船(かいづみせん)※」 でした。

蝦夷地といわれた当時の北海道に生活物資のほとんどを供給し、海産物や毛皮類を本州へ運び出していたのがこの北前船です。

※買船江戸時代の菱垣廻船などの運搬船に対し、 商品を、 価格差のある遠隔地で売買することを目的とした船

北前船の航海は春の大坂(大阪) からはじまります。 風がたよりの帆船である北前船は、寄港地で商売をしながら北上するため、 蝦夷地(北海道) まで片道で50~60日ほどかかりました。

途中、隠岐島の西郷、 羽前の飛島、 津軽の深浦などは風待ち、 潮待ちに適した寄港地として栄えた港もありました。

北前船は物だけではなく、人や文化も運んでいました。

出発地の上方(関西)、 多くの船主たちの住む北陸そして東北などの寄港地の文化も伝えられました。

北前船が訪れるようになった江戸時代後期から明治中期まで、 小樽は上方文化の上陸地となりました。

1865 (元治2)年 「村並み」 とされたオタルナイの人口は1,000人あまりでした。

しかし、その後、 海官所※が設置され、 鉄道が開通し、さらに海岸線の埋立が本格化すると、北海道への物と人が集中し、 急速に町並みが広がっていきます。

1907(明治40)年には人口9万人をこえ、国際航路を持つ経済都市へと発展していきました。

※海官所: 蝦夷地に出入りする船の検査や入港税などを徴収した役所。

江戸時代には 「沖の口役所」 と呼ばれ江差にあった。

オコバチ川から手宮にかけての埋立は明治20年頃に完成します。

そこで、小樽で廻漕業をはじめた北陸の北前船主たちが、 新たに倉庫業をはじめます。

これらの倉庫の多くは、 「木骨石造」 とよばれる安価な建築費で防火に優れた大型倉庫でした。

明治40年頃には市内にあった 200 棟の営業倉庫のうち 150 棟ほどが木骨石造倉庫でした。

春に強い風が吹く小樽は大火の多い町でした。

明治時代だけで 100戸以上の焼失があった大火は16回もありました。

木骨石造倉庫が多く立てられた理由の一つに 「火事に強い」 点があったといわれています。

 

明治後半から昭和初期にかけて、 小樽は樺太(サハリン)もその商圏におさめ、 黄金期を迎えます。

国際航路も開かれ、 港にはさまざまな物資とともに華やかな文化も入ってきました。

自転車などのスポーツや観劇も、 すでに明治中期には盛んになっていきました。

富裕な商人などを中心にカメラや 9.5mm 映画の愛好会もつくられました。

小樽の市街地の西側に 「オタモイ」 と呼ばれる地区があります。

小樽の経済が華やかな時期を迎えていた 1933(昭和8)年、 この断崖の上に龍宮城のような料亭が忽然と現れました。

これがオタモイ遊園の龍宮閣です。

小樽市内で寿司店 「蛇の目」 を経営していた加藤秋太郎によって建てられた3階建ての建物はまさに「この世の物とは思えない」 迫力を持っていました。

昭和27年(1952) に焼失し、現在は礎石だけがのこっています。

運河館トピック展

追憶 小樽をつつむ

1 はじめに

来年の2026年は、 昭和元年 (1926年)から起算して昭和100年となります。 小樽は、 好況の商都として昭和を迎えます。戦後、 「斜陽」 の時代を経験しながらも、観光都市へと転換する時代です。

本展では、昭和40年代から昭和60年代の小樽において、市民の生活を支えていたお店を、博物館所蔵の包装紙や化粧箱などから紹介します。

なお、一部の展示資料は、資料保存の観点から資料画像を使用しています。

 

2 包むものから見えること

包むものは華やかな広告である一方、捨てられやすい傾向にあります。

しかし、 まちの歴史を知るうえでは貴重な資料です。

店の場所や店舗数、名物など、様々な「情報が、店の「顔」である包むものに記載されています。

また、包むものにまつわる思い出も、 資料や地図だけではわかりえない情報を補足する、 「証言」 となります。

包むもののように、 歴史の足跡は私たちのごく身近に、日常に添えられていることにご注目ください。

 

心躍る場所・3つのデパート
かつて小樽には、200m足らずの距離に3つのデパートが並んでいた。

井今井、大國屋、ニューギンザである。

これらは全て、現在のサンモール一番街である「銀座一番街」に存在していた。

また、この通りは花園銀座街と区別するためか「稲穂銀座街」とも呼ばれた。
かつてのデパートは、ただ買い物を楽しむだけではなかった。

おしゃれをしてデパートへ出かけ、衣類や服地、 時には催事売り場を楽しみ、 映画館で映画を見て、大食堂では家族と食事を楽しむ。

そういった特別な場であった。
平成5(1993)年に大國屋が閉店するまで、隣接した3つのデパートは市民の生活を支えた特別な場であった。

池田製菓のバンビキャラメル と 紳士洋品店 新盛堂

鯱(しゃちほこ)
屋根の両端に取りつける飾りの一種で、 古代から用いられている沓や鳥の尾を形どった鴟尾(しび)の変形したものと考えられています。

室町時代から飾られるようになり、その後、 城などにさかんに使われるようになりました。
小樽倉庫の鯱は、 若狭 (福井県) 産で、 明治26年頃取り付けられました。

倉庫に鯱が飾られる例は、全国的にも非常にめずらしく商業都市小樽の隆盛を象徴しています。

 

1.1      明治後期の小樽の街並みを実物大で再現したコーナー

1.1.1  海陸物産商店

■海陸物産商店
小樽や札幌の軟石を利用した石造店舗で、農産物、 海産物を主として取り扱い、 現在の商社的な商いをしていました。

明治から大正にかけて、数多く建築された石造建築は小樽の街並みを造りあげてきました。

店の構えは純日本風。

帳場ごうしの中には、帳場さんといわれた番頭が座り、 店員達は、 通常奥に設けられていた事務所にひかえていました。

 

1.1.2  西洋小間物店

西洋小間物店小樽では、明治から大正にかけて、外国製品をまじえた小物店が、あいついで開店しました。 店内は、時代を先取りしようとしたハイカラムードがあり、 商品も当時としては目新らしいものが多く、木張りの床と、椅子を利用した商いは、当時の洋品小物店のシンボルでもありました。

 

1.1.3  共用栓のまわり

共用栓のまわり

かつて、街の中には水道共用栓を中心にした空間がありました。

夏にはそのまわりに張板や、たらいを出して洗濯をし、バケツと天秤棒で水汲みをする光景がみられました。

また、子供たちのソリ遊びが始まる頃になると、 共用栓も凍結防止のために庭で囲みます。

こうした空間も、各家庭に水道が普及するにつれ、その姿を変えていきます。

 

1.1.4  各種そり

2       中庭

先程の展示で見た鯱が屋根で尻びれを持ち上げています。

「旧小樽倉庫」のレンガ造りの美しい外観が、そのまま残っています。

 

3       第2展示室

小樽周辺の豊かな自然環境や、そこに暮らす動植物の生態を詳しく紹介しています。

北海道の森の盟主―ヒグマから昆虫まで、千種類以上の動植物を標本や写真、ジオラマで展示しています。

トドの骨格標本

平成18(2006)年 小樽市銭函の海岸に漂着した野生のトド (雄)です。

体長は3.2m。 トドとしては最大クラスの大きさです。

小樽市の沿岸には、毎年冬にトドの群れが来遊します。

このような巨大な動物が暮らすためには、たくさんの餌や広い生活空間が必要です。

彼らの存在は小樽の海の懐の深さを私達に教えてくれます。

3.1      小樽の古代

今よりずっと寒い時代に、この北の街に住んでいた人々は大変だったことでしょう。

手宮洞窟古代壁画彫刻 (レプリカ)
手宮洞窟内の彫刻 (小樽市手宮1丁目) は、 慶応2年(1866) 石工の長兵衛によって発見されました。

その後、 明治時代に入り学術学会で発表され、 広く知られるようになりますと、 数多くの研究者が訪れ、 調査研究が進められて今日に至っています。

大正時代以後、研究者によって 「文字」 とした読解釈を行う努力もはらわれ、数例の読解例が残されています。

以来、 古代文字の呼び名で親しまれるようになりました。

その後の詳細な調査から、年代は続縄文時代 (1,500年前)の古代壁画彫刻で、 世界的にも貴重な考古遺産として、保護されています。

縄文時代の食糧

左から植物(種・皮)、魚類・貝類、哺乳類(骨)はいずれも火など、熱を受け、変形し割れている。

縄文時代の生活

縄文時代の人々は狩りと採集をして暮らしていました。

ジオラマの奥のシカを弓矢でねらっている親子から狩りのようすが伝わってきます。

つかまえた動物の肉は食べ物に、皮と骨は服や狩りの道具になりました。

陸にいる動物だけでなく、海にいる魚やアシカ・トドなども狩っていました。

食糧は山に生えているナッツ類・ベリー類・キノコ類・山菜などを採って食べていました。

そのまま食べるのがむずかしいものはすりつぶしたり、 土器を使って煮て食べやすいようにしていました。

知恵と道具

縄文時代の人々は、それぞれの目的に合わせ、身近にあるものを自分たちの手で作りました。

狩りをする時には、遠くからでもすばやく動物を仕とめられる弓矢が使われました。

矢の先には、 黒曜石を割り鋭くとがらせた石器 (矢じり)がついていました。

また、固い木の実をすりつぶすための石器(すり石や石皿)も作られました。

さらに、 動物の骨や角で魚を釣るための釣り針を作り、木で船のオールや家の柱を作りました。

クシなどの装飾品には漆を塗りました。

【忍路環状列石(おしょうろかんじょうれっせき)】

忍路環状列石は、小樽市西部の忍路地区にある縄文時代後期(約3500年前)につくられたストーンサークルです。

この遺跡は谷を流れる川とそのまわりの湿地部分、 谷の南側のゆるい斜面部分からなります。

湿地部分は忍路土場遺跡とよばれ、たくさんの木の道具などが発見されています。

斜面部分には東西22m、南北 33mの楕円形に石をならべたストーンサークルが現在ものこっています。

その周りには取り囲むおおきな構造物があったと考えられています。

ストーンサークルは「目でみえる」ように意識された墓といわれ、 小樽周辺はいろいろな形のストーンサークルがあることで知られています。

4       館外

4.1      消防犬ぶん公

館内でも紹介のあった消防犬ぶん公の銅像です。

寒い所だからか、帽子と洋服を着せられていました。

消防犬ぶん公

「ぶん公」は火事の焼け跡で泣いていたところを消防のおじさん達に助けられ消防本部で大事に育てられました。

「ぶん公」はなんでもおじさんたちのまねをしました。

火事があるとすぐに消防自動車に飛び乗り、現場に着くとホースをくわえて筒先係に渡したり、ホースのもつれを直したり、野次馬の整理にも役立ちました。

昭和の初め頃に活躍した「ぶん公」の出動回数は千回以上にもなり、新聞・雑誌やラジオで全国に知られ、子どもたちや多くの市民から愛されておりました。

しかし昭和十三年二月三日、二十四歳で亡くなりました。

成年の今年「ぶん公」の功績をたたえ、防火の大切さ消防への理解を深めるためここに、記念碑を建設いたします。

平成十八年七月二十一日

消防大ぶん公記念碑建設期成会

4.2      ガス燈

ハロウィン直後だったため、カボチャが一杯展示されていました。

 

スポンサーリンク

-史跡, 美術館/博物館