美術館/博物館

熱海・MOA美術館

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熱海のMOA美術館は山の上にあります。

この美術館は世界救世書教の教祖・岡田茂吉が建て、その収蔵品を展示したものです。

熱海駅から歩いて行くこともできますが、美術館行のバスがとても便利です。

 

エントランス前の広場から見た熱海の街。

手前が駐車場ですが、そこからも上り坂があります。

さてここから長い長いエスカレータを使って本館に向かいます。

次のエスカレータへ。

 

3基目のエスカレータを登りきると円形ホールがあります。

 

ムアスクエアと呼ばれる中間広場に出ました。

像のタイトルは「王と王妃」(ヘンリー・ムア)でした。

太平洋が目前に広がります。

そこから、更に階段で進みます。

本館に辿り着きました。

能楽堂は本日講演無しです。

黄金の茶室

天正14年 (1586)正月15日、 豊臣秀吉は 「黄金の茶室」 を禁中に運び、小御所に於いてこれを組立て、 正親町天皇に自ら茶を献じました。

以後、秀吉はこの茶室を大坂城内や北野天満宮(北野の大茶湯) あるいは九州名護屋の城内に運び組立て、 茶会を催しています。

それらの様々な機会にこれを実見した公家、 大名、 茶人など多数の人達が、それぞれに賛嘆の言葉をもってこれを日記や茶会記などに書きとどめています。

この黄金の茶室は、おそらく大坂夏の陣の際に失われたと考えられ現存していないため、 その実態や秀吉の制作意図、 また当時の茶の文化との係わりなどについて、多くの謎に包まれ様々な憶測を生んでいます。

黄金の茶室を復元制作するに当たっては、文献史料をひろく渉猟し、可能な限り正確な再現につとめました。

この復元は武将と茶人と宮廷人との文化的接触によって華開いた桃山文化のひとつの象徴として、その美術史上の意義を探求したものです。

MOA美術館

虎図屏風

尾形光琳 Ogata Kōrin (16581716)

江戸時代 18世紀

虎は竜とともに漢画の伝統的な画題である。

本図は、大画面をはみ出した大虎が見る者に向かってくる、 気字悠大な画趣を示した作品である。

秋草図屏風

伝 尾形光琳 Attributed to Ogata Kōrin (1658-1716)

江戸時代 18世紀

秋草図は、 琳派においてよく扱われる画題で、本図は秋草の群生を上下に並置している。 菊の表現には2種類見られるが、 花弁を線描きせずに円形に色塗りする表現には、独特の装飾性がみられる。

国宝

色絵藤花文茶壷(いろえ ふじはなもんちゃつぼ)

野々村仁清 Nonomura Ninsei

江戸時代 17世紀

仁清の遺作中、この茶壺は最高の名作として名高い。 仁清特有の白釉の上に、赤や緑、紫、金、銀などを用いて巧みな構図で曲が描かれている。

薄く均等に挽き上げた端正な姿で、文様と器形が優れた調和を見せている。

藤蓮楓図(ふじはすかえで)

酒井抱一 Sakai Hōitsu (1761-1829)

江戸時代 19 世紀

抱一が私淑 (ししゅく)した光琳画の重厚な構成力は影をひそめ、 繊細、 瀟洒(しょうしゃ) な様式美が主となり、 色彩の点でも「たらし込み」よりも色の平塗りによる華やかな効果を重視した。

蓮図は、 本阿弥光甫 (ほんあみこうほ)の作品を手本としたと記されている。

 

伊勢物語図宇津山(いせものがたりず うつのやま)

酒井抱一 Sakai Hōitsu (1761-1829)

江戸時代 19 世紀

『伊勢物語』 第9段に取材したもので、 昔男 (業平) の一行が東海道の宇津山峠(駿河国・現在の静岡県) にさしかかり、暗い山道を前に心細く思っていると都で顔見知りの修行僧に出会い、都への手紙を託する場面である。

 

書状 北政所宛 (しょ じょう きたのまんどころ)

豊臣秀吉 Toyotomi Hideyoshi (1537-98 )

桃山時代 文禄3年(1594)

本消息は秀吉の正室である北政所おねに宛てた手紙と考えられる。

淀殿を有馬へ湯治につれて行くことになり、 その途中、 大坂へ立寄り北政所にお拾(ひろい 豊臣秀頼の幼名) を見せてやろうという内容で、 秀吉の心情がうかがわれる。

 

岡田茂吉は明治15年 (1882) に東京橋場に生まれ、 昭和30年(1955) に逝去しました。 創立者は青年時代に日本画家を志して東京美術学校 (東京藝術大学) 予備の課程に入学しましたが、 間もなく強度の眼病を患い退学しました。

その後、 菜食療法により治癒して、後年の自然農法研究に至ります。

明治38年 (1905) 尾形光琳に因んで小間物「光琳堂」 を開業しました。

明治 40 年 (1907) には茨城県五浦に岡倉天心を訪ねて日本美術院の運動や光琳評価に深く感銘し、晩年に美術館建設を構想しました。

大正9年(1920) 世界恐慌や大正12年 (1923) 関東大震災の影響により事業に大打撃を受け、また家族の相次ぐ不幸にみまわれました。

そして宗教の道に入り、 人生苦の原因が 「病、貧、争」 にあることを覚りました。

創立者は人間の幸せは大自然の摂理に従って生きることであり、その表徴として 「真善美」 を掲げました。

「人間は真理に従い、 善を好み、悪を嫌い、 一切は美化されるのである。

この意味に於て、どうしても芸術を娯しむようになる処か、 芸術即生活という事になり、 非常に発達する、つまり芸術の世界である」

創立者は、人間の理想とする社会は芸術の世界であり、その実現のために美のひな型となる 「箱根・神仙郷」 「熱海・瑞雲郷」 「京都・平安郷」を造り、その世界的な拡大を願いました。

箱根強羅の「神仙郷」は令和3年に国の 「名勝」に指定されました。

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