2025年年末すみだ北斎美術館を見学してから徒歩で浅草寺に向かいました。
隅田川に架かる駒形橋をアサヒビールの本社を見ながら渡ります。

目次
1 駒形堂
飛鳥時代の推古天皇36年(西暦628年)、駒形堂のあたりで漁をしていた檜前浜成・武成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟の網に、一尊の仏像がかかりました。
それが浅草寺ご本尊です。
大きさはわずか一寸五分(約5.5cm)で、黄金の輝きを放っていたと伝えられています。
兄弟から相談を受けた土地の長・土師中知(はじのなかとも)が自宅を寺に改めて安置したのが、浅草寺の始まりです。


ご本尊ご示現(じげん)の聖地
駒形堂
駒形堂は、浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまが、およそ千四百年前、隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。
昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向かった。
このお堂のご本尊さまは馬頭観音さまで、今も昔も、この地を行き交う人々をお守り下さっている。
現在のお堂は平成十五年に再建されたもの。
今もこの地はご本尊ご示現の聖地として、人々の篤い信仰に支えられ、毎月の十九日の馬頭観音さまのご縁日には、多くの参詣者で賑わう。
馬頭観音さまのご真言・・・「おん あみりとどはばうんはった」
金龍山浅草寺
駒形堂(こまがたどう)
台東区雷門二丁目二番二号
『浅草寺縁起(せんそうじえんぎ)』によると、創建年代は朱雀天皇の天慶五年(九四二)で、建立者は安房守平公雅(たいらのきみまさ)。名称由来には、
⓵隅田川を通りながらこの堂を見ると、まるで白駒が馳けているようなので、「駒馳け」の転訛。(『江戸名所図会』)
②観音様へ寄進する絵馬を掛けたので「駒掛け堂」と呼んだのが訛る。(『燕石雑誌』)
③駒形神を相州箱根山から勧請したのにちなむ。
(『大日本地名辞典』)
これらの説がある。本尊は馬頭観世音菩薩。
葛飾北斎・安藤広重らによって、堂は絵に描かれた。
小さくとも、江戸で名高い堂だった。当時の堂の位置は現駒形橋西詰道路中央付近。
堂は関東大震災で焼けた。
平成四年十一
台東区教育委員会
2 浅草観音戒殺碑(あさくさかんのんかいさつのひ)
駒形堂の敷地の中にあります。


東京都指定有形文化財(古文書)
浅草観音戒殺碑(あさくさかんのんかいさつのひ)
所在地 台東区雷門ニーニー三
指定 大正一一年六月
駒形堂は浅草寺の伽藍の一つで、浅草寺本尊聖観世音菩薩が隅田川から発見された霊地である。
このため元禄五年(一六九二)、当地魚鳥殺生禁断の地とする法度が出された。
これを記念して、翌年(元禄六年)浅草寺第四世権正宣存が願主となり、戒殺碑が建てられた。
殺生禁断の範囲は駒形堂を中心に、南は諏訪町より北は聖天岸に至る十町余の川筋だった。『御府内備考』によると、諏訪町・聖天町にも高札が建てられたという。
戒殺碑が建てられた駒形堂の堂宇は、江戸時代に何度か焼失している。
戒殺碑も倒壊し、宝暦九年(一七五九)に堂宇とともに再建された。
現在の碑は関東大震災後の昭和二年(一九二七)に土中より発見され、同八年の駒形堂再建と同時に修補されたものである。
元禄当初の碑か、宝暦再建のものか定かでない。
碑身は石造(安山岩)で、長方形円頭板状。
正面及び両側面を研磨し、背面は野面のままである。
台石は昭和八年修補時のもので、上面・正面・両側面・背面の五面を研磨してある。
総高一八三・五cm、正面幅六一cm。銘文は『浅草寺誌』や『江戸名所図会』にも収載される。
元禄期当時の信仰及びその周辺の状況を明らかにする貴重な資料である。
平成二三年三月 建設 東京都教育委員会
江戸幕府第5代将軍の徳川綱吉の時代の事ですね。
3 浅草寺
夜の浅草寺は人も少なく綺麗です。
3.1 雷門

3.2 仲見世通り

3.3 宝蔵門

3.4 五重塔と宝蔵門


3.5 本堂

御本尊については、大化元年(645年)に勝海(しょうかい)上人という高僧が浅草寺を訪れた際、夢の中で「みだりに拝むべからず」というお告げ(託宣)を受けたため、本堂の最奥にある「御宮殿(ごくうでん)」の中に固く封印されました。
これ以降、1400年近く「人間の目で直接見てはならないもの」として守られ続けています。
そのため、現代において「実際に見た」という人は一人もいません。
3.6 昼の浅草寺


聖観音宗総本山(しょうかんのんしゅうそうほんざん)
金龍山浅草寺(あさくさかんのん)
御本尊 聖観世音菩薩・しょうかんのんぼさつ(御秘仏)
慈悲の仏さま 浅草寺ご本尊の観世音菩薩さま
観音さまは、多くの仏さまの中でも最も慈悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。
特に浅草寺ご本尊の観音さまのご利益・ご霊験は古今無双であり、ご示現より今日まで千四百年近くにわたり計り知れぬほどの人々を救われご加護なさってきました。
観音さまのご信仰とは、観音さまに「慈悲」のお心を頂いて生きること、すなわちすべてに「あたたかい心」で接して日々を過すことと申せましょう。
※ご参拝の際には合掌して「南無観世音菩薩」 とお唱えしましょう。
縁起(由来)
時は飛鳥時代、推古天皇三十六年(六二八)三月十八日の早朝、檜前浜成・竹成の兄弟は江戸浦 (隅田川)に漁撈中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。
郷司土師中知(名前には諸説あり) はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。
大化元年(六四五)、勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の掟は厳守されている。
広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁さま(七九四~八六四、浅草寺中興開山・比叡山天台座主三世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。
鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。
江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所とされてからは、堂塔の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。
かくして都内最古の寺院である浅草寺は、浅草観音の名称で全国的にあらゆる階層の人たちに親しまれ、年間約三千万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。



